思考力

クラクションを鳴らされる場面

 

私は、思い入れのあるクラスでは、「他人を羨望することの愚かさ」を必ず語りつつ、その年の授業を終えることにしている。とはいえ、人間たるもの、常に、何かと何かを比較していることは明らかなる事実であり、その比較の中で、常に優先順位をつけたとすれば、やはり「羨望」というマイナスの感情が浮き上がってしまうものである。ただ、この話をする目的は何かというと、最後に送り出す自分の”DNA”を受け継ぐ若い人たちの心に深く突き刺さるものがあるから。また、この話を聞いて、自分の弟子となる多くの受験生が、合否に関係なく、他人を羨望して生きていくことの愚かさを、どこかで思い出しながら生き、次のステージへ向かう目を輝かせて、晴々とした姿で試験会場へ行くのかと思うと、その年の苦労が報われる時でもある。

全く仮の話として、今現在、自分が非常に過酷な状況にいるとして、一度それを「フラット」な状況にしてイメージだけしてみる。そこに浮かぶ、自分にとって最高に幸せな状態というのは何だろうか。おそらく、苦しみの渦中にいる人にとって、具体的にその「状態」をイメージすることそのものが苦痛で困難である場合がほとんどで、仮に、お金持ちでモテモテの自分を想像できるような人ならば、それは、過酷な状況にいるとは、とてもいえないお気楽な人だと私は思う。真の苦悩というのは、恐ろしく深い。

では、今現在、イメージしている「場所」が、どのような場所なのであれば、とりあえず幸せな環境に居られるだろうか。これは、苦しみの渦中にいる人であっても、なかなか想像しやすいのかもしれない。例えば、南の島で、ハンモックに揺られながら、木陰でトロピカルジュースを飲んでいる光景にいる場所であったり、綺麗に整ったシンプルな部屋に、パリッとノリの効いたシーツに、フカフカのベッドに飛び込める場所であったり。人それぞれ、いろいろな幸せな「場所」を描けるようになる。まさか、極寒の南極で、白熊が追いかけてくるような場所と場面を「幸せ」だと感じるような変態もいなかろう。

では、今の「場所」が、果たして整っているのだろうか。机の周り、カバンの中、財布、コード類、衣服、果ては、スマホやパソコンのアプリであっても、苦しみの渦中にいる人は、なかなかそのような「場所」を作れているとは考えられない。これまた先ほどとは逆接的な変な話となるかもしれないが、部屋がシンプルに片付いていて、キチンと整理整頓されている部屋で、悶々と悶え苦しむ人は、果たしているのだろうか。先程の白熊から逃げている場面を幸せと感じる奇異な人と同様、整理整頓されている部屋では、なかなか悲しい気持ちにはなれないと思う。少女漫画などで、お目目がメチャクチャ大きくてキラキラしているようなキャラが主人公の架空の世界の乙女の部屋ならまだしも、やはり気持ちの乱れは、部屋に現れると、最近の私はつくづく思うようになっている。

昨日、旧居の退去立会の場で、何とも歯切れの悪い終わり方となってしまった。摩訶不思議な現象が2点。オーナーが残していたはずだと言っていたエアコンが無いということ。次は、私が売却するために天井から取り外したシーリングライトの接着部の機器とリモコンが無いということ。何とも、モヤモヤが残る。ただ、このブログでも何度も書き続けていた通り、退去には万全を期すために、何度も何度も車で往復を繰り返していたのに、このようなアクシデントがあると気持ちが萎えてしまう。だから、こんなに気持ちが萎えるくらいなら、とっとと新居に移した物を処分していくことにしている。このブログを書き上げたら、直ぐに燃えるゴミを集積所へ持って行こう。明日は、ゴミの日だ。

今年、6月8日に他界した母は、本当に物を捨てられない人だった。完璧主義で、頑固で、人に助けを求められない。ただ、これは完全に自分の投影だったということに気づく。つまり、あの世とこの世で区別されたときに、明確に見えたことは、母と自分の間にある”DNA”の強さであった。クラクションを鳴らされるとビクビクし、場を和ませようとしながら他人の顔色を伺う。それでいて、一度嫌いになったら、決して許さない。これは、まさに自分そのもの。気づいてはいたものの、認めたくはなかったし、ずっと変えられないと思っていた性格的に弱い部分でもあった。

ただ、最近では、後ろから思いっきりクラクションを鳴らされて、車からオラオラ系の人が出てきても、運転席の窓から顔を出して、眉一つ動かすことなく全く動じずにいられる。殴られたら、殴られたときに考えればいいし、次の駐車場で降りてきたら、その時考えればいい。取り越し苦労で、石橋を叩いて叩いて渡らないような母の気の小ささを、そろそろ卒業するときが来たのだ。青信号で、そのまま進めば、そんな輩の車は、バックミラーには写っていなかった。喧嘩したくてウズウズしてたのかもしれない。出てきた顔が、めんどくさそうな相手だと思って、次の羊を探しに狩にでも行ったのだろう。昨日だって、スケボーをやっているのを気に入らないと言わんばかりに、すごい勢いでクラクションを鳴らされたが、近所の人に、「穏やかじゃない人もいるもんですね」と言って、笑い話にできるようになった。まさに、雛鳥として親元を離れられたのは、40半ばと言ったところだったのだ。情けない。

今、部屋をぐるりと見渡せど、何気に捨てる物もほとんどなく、買うものは、消耗品くらい。とりあえず机の上も整理し、母のお香典をくれた親戚への手書きの手紙も書き終えた。明日は、それをポストに入れたら、悪徳企業の退治をするために、色々と行政の力を借りに、多くの窓口へ電話をしたり、メールを送ったり、直接出向いて行かなければならない。明日は、平日、月曜日だ。マンデーブルーの役所の職員には申し訳ないが、借りられる力は、全部借りなければならないと思っている。自分の気持ちを外に訴えかけることで、自分の存在を知らせること。これは、私なら少し派手なくらい大きな音のクラクションを鳴らすべきだ。とはいえ、ほとんどの窓口は、すでに私の紛争のことの成り行きを理解している。では、燃えるゴミを出してから一寝入りして、目が覚めたら鬼退治の準備のための準備。用意周到になりつつも、1発で仕留められるように狙いを定めている。

最近は、エキサイティングなことが多くてワクワクする。ゴミを捨てたら、ゴミの塊を燃やすことに専念できるのであれば、これほどめでたいこともない。興奮して眠れないかもしれない。最近の不眠は、幸せホルモンが多く出過ぎて、脳ミソが覚醒してしまっているようだ。気をつけねば。

 

 

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