思考力

安吾の床

 

限りなくシンプルにしていきたい。できる限り、眼に視えて残ってしまう立体的な物を買わないでいる。すると、目に見える空間を広く取れるようになり、自分の思考回路そのものが明晰になっていくことを実感している。部屋と部屋の仕切りがないワンルーム。こんなにも快適だとは思わなかった。プラス効果として、気持ちまでシンプルに明るくなり、スケボーを蹴って、ご近所さまにニコニコと笑顔で挨拶できる。こんな中年男が、恥じることなく少年のような顔で微笑んでくるのだから、およそ危険人物だと思われることなく、すでに顔馴染みの人だってできてきた。今までの人生で、自分の中の壁を乗り越えてきてくれた人だけに心を開くという、無意識のうちに造り上げていた壁のような障壁で縛られていた呪縛のようなものから、解放されていく感覚もまた、清々しい。

ただ、怨霊の塊のような側面を持ち合わせている私の醜い心の中では、過去に自分に危害を加えた人間に対しての憎しみを消すことは、なかなか難しいもので、これは昔からの悪癖が抜け切れていないのであろう。ただ、ある意味では、自分のかけがえのない大切な領土を侵略されたことに対しての怒りが再発しているだけ。例えるのであれば、その消えずに遺っている燃えカスに、少々へばり付いている残り火に、トラウマという油が再着火していることがほとんど全てであり、そのように引きずって生きている今までの自分は、自尊心をキープするスタイルを、頑なに捨てていないだけという終着点に落ち着く。

コロナ禍で、リモートで完結するビジネスが一気に増加し、多くの人たちが、それまで通勤などで費やしていた時間を、家で過ごすこととなり、満員電車に揺られる苦痛などが軽減したなどのメリットがある。その反面、騒がしい家族がいる自宅で仕事をしなければならないことから生じる問題だって浮上してきて、それはそれでストレスになる人も多いはず。ただ、私のように、実際に仕事現場まで足を運んで行くまでに、体調を整えて身支度をしなければならないという、ある種の強迫観念に苛まれる性格であれば、今のリモートでの仕事のスタイルというのは、自分にとって、とても相性がいいと言える。具合が悪くても、パソコンの電源が入り、オンラインツールをセッティングしている間に気分を整えれば、あとはいつもニコニコの自分であるという「フリ」をしているだけでいい。そして、電源を落とせば、どんなに暗い顔をしていようが、相手に伝わるわけでもない。そうなると逆に、電源を落としてから、オンラインでコミュニケーションをとっていた時の気持ちがそのまま継続して、気持ちが軽くなっていることが多いのだ。これは、なかなか予想しなかった、もう一つのメリットでもあった。

そんな電源を入れるまでが勝負の自宅は、やはりスッキリとさせて置かなければ、仕事をするという人生の中の貴重な時間を、下手くそに費やすことに繋がってしまう。だから、今のワンルームの部屋の中であれ、さらに、空白のスペースを作り、その範囲の中で生活で完結させられるように組み立てていく。狭い空間の空白のスペースを、どんどん広くしていくという、ミニマリスト生活を実践する。こんなシンプルライフを作り上げるという誰でもできるはずの、なかなか実行しがたい逆説的な仕組み構築を趣味にするのも、なかなか悪くはない。こうなってくると、ひとつ物を購入したら、ふたつ物を処分する。この考えを判断の基準の中心としていなければ、シンプルな空間と思考回路など、手に入れられるわけがない。

作家、坂口安吾の部屋は、足の踏み場もないほど、とっ散らかっていたが、これが彼の思考回路の象徴なのか、単なる性格によるものなのかは不明。ただ、もし、彼の部屋が整理整頓されていたとしたら、彼の作品には、如何なる影響を与えていたのかは、今の私にとって、とても興味深い。『桜の森の満開の下』には、金銀財宝が埋まっていたなんていう、オチもへったくれもない作品止まりになってしまっていたのだろうか。そんな彼の代表作ひとつとっても、埋もれたゴミの床の下に、何が自分の作品のスパイスになるのかという探究心に、秘められた想像力につながっていたのだろう。深層心理学者でもない私が定義することはできぬが、あそこまで散らかり切った、整理整頓できない彼の性格には、やはりどこか脳ミソの回路を象徴していると思っている。

しかしながら、無駄を省いて、どんどん物を処分して整理していくという、ただ単に効率性ばかりを追求していくだけになってしまうと、何かに対して腰を据えて熟考する機会を失うことになるとも考えている。確かに、限られた人生の時間の中で、テキパキと物事を処理していくことは、とても大切なことである。いわば、時間のエコ。ただ、それに固執してしまうと、自分の効率性ばかりを優先させてしまい、他者との繋がりをも切り捨ててしまうことに繋がって、孤立してしまうのかもしれない。そうなってしまうのであれば、いわば、自分のエゴ。でも、今の私は、そうは考えていない。効率的に動くことで、心の中にゆとりが生まれ、そこに広がった心のスペースに、誰に対しての思いやりを育むことだってできる。そういった面において、身の回りの空間をシンプルにして、思考回路を整えておくということは、常に意識しておくべきだと考えている。

時代に応じて、考え方も変化する。小学校での英語教育の義務化であれ、高校での古文漢文の学習に疑問符が付きつつ、その分、金融知識を考える科目が入ってくる。思考力を必要とするために、センター試験から共通テストへ移行する英語の問題が、結局、長文の語数が長くなっただけで、マークシート形式は変わらない、単にの情報処理能力を求められるだけのテストになってしまったという結末。ただ、その変化に対して、様々な考え方があり、一方的に批判したり、全てを鵜呑みにすることは危険であり、根本的に間違っている。

人間の身体的部位の中で、一番動きがある「手」。それを、拳にしたり、大きく開いたり、チョキの形にしたり、OKの形にしたり。それを、多くの人の前で見せたとしたら、その人それぞれの見え方自体が、ズレてくる。それが、あるステージの上で行われているのであれば、見ている人の座っている位置が近ければ、その周辺の人たちには、同じような形に視える。逆に、席が離れていれば、ほとんど違う形に視える。網膜に映る形にさえ、それぞれの形に変化を感じるのだから、そこには、物理的にも一定の視点というのは成り立たない。ただ、ひとつだけ確実に言えることといえば、手の形を正面からではなく、相手の背中越しに観ていては、何も視えないということと、目を閉じてしまえば、等しく何も視えなくなってしまう。

床が見えないほど散らかった部屋。目を開いても見渡せない大きな家具が所狭しと並んでいる部屋。そんな部屋の住人は、思考回路そのものが絡まり合っていることがあるのかもしれないし、それを解消させることで、様々な角度から物事を考え、自分なりの明晰な考えを持てるようになる。少なくとも今の自分は、そのように考えている。

 

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