思考力

静けさに浮き出る思い

 

毎日、わずかではあるが、予定が入っている毎日が続いていた。ただ、今日は週末で、役所も休み。お堅い手続きなどもできないわけだから、全くのフリーデイとなる。そんな中、お香典返しをした。亡き母へのお心遣いを、お返しするのに、落ち着いた日を選びたく、逆にお返しが遅れてしまったことを申し訳なく思っていた。その中で、一番、お世話になった親戚の方は、頑なにお返しをされることを拒んだ。一度、その方に会いにいくときに、菓子折を持っていったのだが、いつもは温厚なその方が、とても迷惑そうと言うより、怒っている状態だった。自分がやることに対して「お返し」をされることを、とことん嫌う。あくまでも、見返りを期待しない優しさをくださったその方には、今、慣れない薄い墨色の筆で、曲がった字ではあるが、感謝の手紙を書き綴っている。

私と母との別れは、コロナ禍であり、しかも終末医療の病院にいたということもあり、徐々に死が近づいているという覚悟ができていた。そんな中、まさにテクノロジーの時代は流れていると実感したのは、このようなウィルスが蔓延する中、面会は“Zoom”越しに行われることだった。時間は、5分程度と限られており、衰弱していく母の様子を見ながら、退出のマークをクリックして、泣きじゃくることも多かった。今、母の遺骨は、兄の自宅へ移動し、やっと机の上でブログを書ける落ち着いた空間と心の状態を得られている。だから、ゆっくりと筆を動かしながら、穏やかな気持ちで、お世話にになった親戚に感謝の意を伝える手紙をかけている。10枚以上の便箋を入れることになろう手紙も、もう直ぐ書き終わる。

コロナの感染拡大は強まるばかり。症状が中程度であっても、自宅療養を余儀なくされる感染者が多数いる状態。医療も病院も逼迫し、病床を確保できていない状態が日増しに広がっていく。そんな中、昨日、コロナに感染した妊婦の方を、病院側が受け入れられない状態で、結果、自宅で出産することに。過酷な状況での出産に、生まれてきた子は、帰らぬ人となってしまった。未曾有の大惨事の中、無限の可能性を秘めた人の命が奪われていく。赤信号を完全無視した女性が猛抗議し、多くの白バイが続々と集まってくるという動画が、1年間で、1121万回再生されていた。その良し悪しはどうでもよくて、コマセに群がる魚たちのように、食えそうな人がゴネていたら終結する時間と労力があるのであれば、生まれかけている命を助けられるように、白バイ隊員たちが、一丸となって、救急車の進む道を広く空けられれば、ある程度遠い距離にある病院に、患者を搬送することはできたはず。

このような事件が起こってから、妊婦の方の病床を確保するという動きを、政府はとるのであるが、時すでに遅しとなり、犠牲になってしまった命があることを、慎重に考えなければならない。容態が急変した患者を、救急病院へ搬送する際に、大きく道をひらく術を考える。少なくとも、赤信号を2秒無視したかどうかで、大声で怒鳴り声を上げて押し問答をしている女性に対して、二桁に迫る数の白バイ隊員は、明らかに不要。税金のムダ。私が、かつて交通違反をした時などは、最後には必ず「裁判」という言葉が、警察官の口から出てきたものだった。これは、警察署の研修とか、交通違反者に対しての警官のマニュアルブックみたいなものがあるに違いないと思っている。

明日、旧居のオーナーの立ち合いのもと、大きな傷などがないかの最終確認が入る。この古くて広いだけが取り柄だった家で良かったことは、10年以上集まることがなかった家族が、全員集まれるだけのリビングのスペースがあり、そこには骨壺に収まった母の遺骨もあったわけで、その空間を得られたということだ。今のワンルームでは、来客用のスリッパや、布団なども処分しようと思っている。「ミニマリスト」な生活で、部屋を一望すれば、モノの在り処が分かり、常にそれらのモノの住所が頭に入っている状態にしたい。

かつて、私を雑巾のように扱った会社を相手に、今、労働局を通して戦っている。現在、かなりのダメージを与えられているので、私としては予想以上の動きができている。そもそも、そんなブラック企業が、こちらに反撃に出てこようが、私にはすでに奪えるものなどない。だったら、真正面から戦おうではないか。そもそも、各校舎で何が起こっているのかも知らずに、上層部は知らん顔なのであれば、どこかで必ず歪みが出る。それによって犠牲になった社員が、今までも星の数ほど出ていたわけだ。ここを私が攻めなければ、何の為に、母と共に千葉に出てきたのかわからない。千葉に出てきて、のどかな生活を考えていた自分の理想を打ち砕かれ、もはや母と一緒に生きられないのであれば、悪い塊の闇を暴くくらいしてもバチは当たらない。いや、それをしなければ、私は一歩も前に進めない気がする。職人として授業をしていた自分のプライドを傷つけ、それを砕いた罪は重い。

ステイホームで、本来なら全国民が大人しく自宅待機をしていなければならない期間だ。海外で言えば、ロックダウンをしなければ止まることのない感染者数。掛け替えのない命が奪われていく。それでも飲み歩いているような輩たちも多いようだが、このようなときには、家にじっとしていつつ、今までの人生を振り返りつつ考え、納得いかなかったことや、もちろん感謝の意を伝えたいことなどを、じっくりと考える機会だと捉えることもできよう。政府に文句を言っても、ウィルスは手を緩めてはくれない。ならば、自分の中にウィルスを入れないように自宅待機をし、これからの人生の中で、良かったことと悪かったことを、具体的に炙り出して考えるということは、今、自宅待機を求められている国民の「チャンスタイム」ではないだろうか。

危機があるということは、危機を乗り越えるチャンスが存在する。そのような発想でいられるのであれば、今後の人生の展望は明るくなる。少なくとも、私は、そのように信じている。

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