思考力

軸になれない主役

 

人間の身体というのは、なかなか時間的に正確にできているようで、私も「ニンゲン」の範疇にいるのだから、その時間の軸からズレることはできないようだ。今回のブログでは、そのような時間の埋め方や、時間に対しての捉え方などを中心に考えてみようと思う。そもそもの話、無理矢理、最新ニュースと照らし合わせて記事を作成していても、そのこと自体が、メディアの狂音に踊らされているだけだとも思ったので、これから数日程度は、試験的に、自分の思考を整えて発信することを中心としたスタイルにしてみよう。

では、時間的なズレとして、昨日の疲労からきたであろうトロけるような疲労からの眠気で、熟睡感満点の今朝を迎えたのであれば、熟睡できた日の次の夜である今晩は、案の定、眠れない状態。こうやって文章を書いている時間も眠れぬ夜を過ごしている深夜であり、日付跨ぎのシンデレラタイム確定だ。人間の脳は、カラになると埋めたくなる仕組みになっているそうで、私が「テトリス」にハマったのも、そのせいなのだろうか。話が脱線しそうなので、話題を「時間」という軸から離さないようにしよう。

今回は、他人の人生を生きる。これを深掘りして考えてみる。この状態は、会社に従属するだけの奴隷のような時間であったり、嫌々であっても家族サービスをしなければならない時間を費やしているような状態のことだ。これは、生活を営む上で、ある程度は欠かせない時間でもあるゆえ、完全に省くことはできない。ただ、まさに現代の社会生活を営む上で不可欠な存在となった「インターネット」から送られてくる無限の情報に振り回される時間というのは、あまり感心できない。

特に、他人の人生の一部の輝いているところだけを切り取っただけであろう【SNS】の情報を閲覧し、自分の心が萎えてしまっているのであれば、そんな時間は、徹底的に排除していかなければならない。InstagramにTwitter、くだらぬ企画で炎上に近い情報発信をしているYouTubeの動画。それを閲覧して、果たして何の意味があるのか分からないモノもあれば、フェイクの情報だって多く見受けられる。英語講師として試聴していると、実りのある動画もあるが、解説が明らかに下手くそなモノもある。それに対してイライラしていたとしても、AIという「営業マン」は、非常に凄腕であり、ほぼ完璧なアルゴリズムやターゲッティングで、個人の趣向のデータを分析し、次のオススメを提示してくる。

先程の「テトリス」ではないが、人間は、無きところを埋めたくなる習性があり、時間という観点から考えて、空白の時間を有意義な時間とできるか否かで、今の時代を生き抜けるかどうかに大きな影響が出てくる。それならば、やはり、自分の中で、特に高い意識で、情報のファスティングと、真に仕入れなければならない情報を見極め、人生の主役である自分部は、他ならぬ自分であることに気づかなければならない。そのような主体性のある自分が実感できないのであれば、優先しなければならないと思っていたはずの仕事でも家族でも、友人関係でも、逆に上手くいかないことは明らかだ。もっといえば、自分という、決して離れられない存在と上手く付き合うことができなくなってしまう。これは、非常に危険なことでもある。

自分の人生にイマイチ充実感を得られていないのであれば、やはり、どこかで自分以外の誰かのために生き、多すぎる情報の中に埋没し、自分の存在がわからなくなってしまっている状態なのかもしれない。他人の人生を覗いて、そこに自分の劣等感しか抱けないのであれば、そのような情報など一切無視し、他人に流されない自分の人生の舞台の主人公を、あくまでも自分であるという意識で、流されないスタンスが重要だ。この姿勢を維持できるのであれば、次の段階である、シンプルに自分の思考回路を整えるステージに入ることができる。

空っぽの部分を埋めたくなるという人間の脳の仕組みと本能を変えることができないのであれば、それに抗おうとはせず、自分が何者かという軸を熟考して、決して自分の時間的な観点の「軸」をブラさない。繰り返しになるが、人生の時間の流れの中心は、あくまでも自分であり、その舞台で踊る主役も自分であるということを忘れてはならない。メディアから、無限に吐き出される無作為に選ばれた情報を、ひとつでも得てしまえば、そこから大量に送られる情報の渦に呑み込まれるのは、不可避。相手は広告のプロ集団であり、巧みにコンピューターを使いこなし、こちらの趣味嗜好を知り尽くそうとする。だから、情報そのものに触れないことが大切。触れないとか、放置して置くという意識では甘い。常に気を張って、相手の勧誘を牽制し続けることをしなければ、取り戻すことのできない「時間」という大切な資産を、次々と失うこととなる。

テレビ、新聞、雑誌など、物理的に持ち歩かなければならない物から得る情報というのは、受動的な情報であり、ここからの発信に対しての自己防衛は、比較的簡単だと、私は考えている。ただ、問題は、やはりインターネットだ。20年前は、ミカン箱のようなパソコンを持ち歩いてインターネットからの情報を、外出時に得ることはできなかったし、10年前は、歩きながら「板チョコ」のような物体を、突いたり撫でたりすることなど考えられなかった。そう、今や「スマホ」という物体から、自分の抽出したい情報を簡単に入手できるわけだから、そこから開いたパイプを逆流させて、AIがカンタンに自分の意識を見抜いてしまう時代なのだ。これでは、人生の主役が、スマホを介して辿り着いた相手先に変更されてしまう。利用していたはずのアイテムに、いとも簡単に利用される側に入れ替わってしまったのだ。

私は、スマホからは、ツイッターを消し、Twitterのタイムラインも見ることはせず、Twitterの利用は、このブログのアップロードの報告のみに利用している。かつては、検索しながら、Twitterのインプレッションをチラチラ見て、そのエンゲージメントが気になり、なかなか増えない数字にイライラしていた。その習慣を手放すことには、多少の禁断症状のようなものがありつつも、今や苦しさどころか、解放感ばかり。縛られていたモノから抜け出せることによって得られる満足感というのもまた、人間にとって、高い光悦感をもたらすようだ。

今、お腹の出っ張りを削ぎ落とすため、結構ハードな減量中の私だが、やると決めたのであれば、少しずつ減らすのではなく、一気に減量モードに入る。引越しを機に、私は白い炭水化物を口に入れていない。食べるという行為は、人間にとって欠かせない行為であり、人生において、美味しいものを食べて得られる充実感というのは、幸せのベスト3にノミネートされる素晴らしいイベントだ。ただ、落ち着いて考えてみれば、その食べている物そのものが、身体に悪影響を及ぼす「毒」なのであれば、それは真の幸せとは言えない。一時的な満足感を得られる物質を、何度も身体に摂り入れさせようとしている食品加工会社が仕掛けた、依存性のある物質を飲み込んでいる悪癖。そこから離れ、毒をデトックスさせるには、一時の苦しさはあれ、身体が真に必要としている栄養素は、意識次第で正常な食品へと移っていく。

垂れ流しになっている過剰な情報の遮断の考え方も、まさにこの考え方と同じだ。一時的な興奮を追い求めて依存してしまうことなく、この際、スッパリと依存していた情報を断ち切ることで、自分の人生の主軸がハッキリと分かり、自分の中に眠っている感性に気づき、自分の内側の動きを静観することができるようになる。自分の得た情報を、自分の周りのリアルな関係の中に見出せれば、自分の本当に求めていた情報というのは、実際に関係性を持たなければならない環境の中で育まれる人間関係であることに気付けるかもしれない。自分の中に意識を向けていくことは、多くの優秀なビジネスパーソンが行っている「マインドフルネス」に近い。意識が変わり、行動する方向や選択肢が変化することで、時間に対しての捉え方そのものも変化する。外側に意識を向けていた時の人生の主役が、下らぬ情報発信者ではなくなり、内側に意識を向けていれば、自分の経験の中での軸を、かけがえのない自分が見定めて行動することができる。

考えの主軸を置く視点は、あくまでも自分の価値基準であるということを認識し、それを意識し続ける。そうすることで、人生という道のベクトルが、自分主体となり、生きる上での過程で起こる様々な経験は、良きことも悪きことも、自分で対処する責任を担うことができる。このような状態を作り上げられれば、他者に責任転嫁をするという情けないことを回避できるようになるだろう。人生のペース配分の責任者が自分であるとなれば、自分の行動に対しての考え方も、慎重かつ丁寧になり、生き方そのものも充実していくのは、当然。誰に預けたところで、誰が責任をとってくれるはずもない自分の時間は、自分という主人公が責任を持たなければ、何もかもが不本意な結果に収まってしまいかねないのだ。

人生の意味を問われたときに、それに答えるのは、他ならぬ自分であると同時に、その自分を形成した源は、自分が得てきた情報でもある。そして、そこから得た情報というものが、主体的でなければ、人生の意味は何かという根源的な問いに対しての的確な表現に苦しんでしまうことになるだろう。少なくとも私は、そんな曖昧な答弁はしたくないと思っている。

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