思考力

雲間にいる1人の馬

色々な分野で、「この効果は抜群だ」という広告を見かける。確かに、その中には、それを開発した人の科学的根拠に基づいたものや、強い意志がなくとも、比較的ハードではない方法で、目的を達成できるものもあるのかもしれない。ただ、小さな努力で大きな成果が出るという謳い文句のほとんどは、一過性のものであり、ダイエットや資格試験などでの成果を得るときには、何かしらのブームというものがある。

そのような大袈裟な宣伝文句を前にして、目先の利益や利潤ばかりを追い求めていれば、全体の仕組みを知ることなく、大きな失敗や、詐欺に遭うこととなる。まるで、悪魔の「リボ払い」などは、その典型とも言えよう。そのようなアタマの悪いヒトたちの1人にノミネートされている私。今回こそは、引っかからないという意気込みで生活していようと、やはり目の前にニンジンがブラ下がってる状態では、種馬の如く、その前にある報酬を受け取ることに専念してしまう。我ながら情けない。

いま、この記事は、TOKYO Shibuyaで書いているのだが、やはり、至る所に広告が張り巡らされていて、どこか1つに飛び乗って仕舞えば、あっという間に財布の中身を抜き取られそうである。外房では降っていなかった雨が、シトシトと降り注ぎ、大きな交差点では、傘が行き交う。皆が、和楽器バンドのボーカルのように、傘同士が衝突しないように、見事に傘を操っている。傘を買う余裕などない私は、雨脚が弱まることを祈りつつ、主治医の元へ行かなければならない。

もはや、私には、親しい人など必要なく、自分1人で過ごすことにも慣れた。千葉外房に住んで学んだことが、多くあったので、もっと早く移住しておけば良かったという気持ちと、移住しなければ、こんなに経済的に圧迫されることもなかったという気持ちの狭間に気持ちが揺れる。ただ、甘ったれた自分を鍛え直してくれた移住生活を選んだことは、やはり正解だったと思う気持ちの方が強い。

今、重度の依存症に苦しんでいるが、どんな依存症であれ、一度でも沼に嵌まり込んでしまったのであれば、もはや完治というものはなく、その依存の対象を、いかにスルーできるかということにかかってくる。セルフケアが難しいのであれば、それをシッカリと理解してくれる専門家に治療をしてもらう。自助グループとつながる。そのような具体的な方法で対処しなければ、蟻地獄は容赦なく自分を地獄の穴へと引き摺り落としてくる。

私は、とても弱い。ただ、どんな人であれ、1人の時は弱い。それならば、いつでも1人でいられる力をキープしていられるということは、とても強いことなのではないだろうか。今、ふと喫茶店の窓から外を眺めると、雲間に陽がさしていた。ただ、沖縄には、強い台風が近づいている状態。これから北上してくる台風に対して、自分は、どのように対処していくか。自然の脅威を、時間の流れの中にある障壁と捉えるのであれば、容赦なく自分のところに近づく魔の手をスルーするかというのは、やはり最終的には自分1人の力に委ねられることになる。1人であるということの真意を考えさせられる、東京の朝の喫茶店であった。

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