思考力

階段の上の足跡

一言、ぼそっと「ありがとう」と言って、目が覚めた。何に対しての言葉だったのか、よく分からないし、起きようとしながら半覚醒のまま、浅い夢を何本か見た記憶もある。それを引きずってしまったのかもしれない。だからといって、気分爽快な朝かと思えば、そうでもなく、不思議な一言の後、不安になってフラッシュバックが脳裏をよぎったことも事実。布団を上げ、窓を開け、玄関を開けると、モワッと言えるほどの暖かい空気が入ってきた。もう、11月だというのに、今の気温は「26度」。さらに日中にかけても上がる予報だ。

今、ルンバが掃除を終えて、充電ステーションへ戻っていった。ブログを書く前にドラム洗濯機を回し、コーヒーメーカーを作動させている。今の気温を調べることだって、アップルウォッチに話しかければ、正確に答えが返ってくる。もはや、私の周りに配置されているメカは、私の言いなりになって動いてくれる召使たちであり、これらをさらにうまく活用できれば、たいていの家事は、お任せできるようになる。自動運転が間近に迫っているのであれあ、ますます自分の中での行動の簡略化が進み、果たして自分が完遂すべき行動というのは、何が残るというのだろうか。

双極性障害の患者が短命に終わるというデータから、結構考えることがあった。自分をすり減らせるような生き方をして、果たしてその先に続く人生というのが短いのであれば、果たして自分が危惧している対象に対して、どれだけ向かい合う必要があるのかとか、ロスタイムの中での過剰な思索というのは、果たして寿命を縮めるに過ぎない愚行なのではないだろうかなど。ただ、データはデータであり、私は人生100年を達成するかもしれないし、生活保護のお世話になってカツカツの生活が待ち構えているのかもしれない。未来は予測できない。それを予測できたのだとすれば、今度はつまらない人生しか残っていないのかもしれないのだから、余生をいかにして生きていくのかという課題は、誰に対しても漏れなく付き纏う課題であり、年齢が高くなるほどに深刻となってくる問題でもあるのだとも思う。

今年の夏前に腰の骨折が判明し、毎日コルセットを装着して生活している。この事実は、私の人生を大袈裟ではなく大きく変化させてしまったことは、間違いない。前屈できなくなるという制限は、誰にとっても歓迎すべきことではない。そして、去年の今頃は、緊急病院で頭蓋骨骨折の治療を受けていた。全く予想だにしない事故によって、人生が終わりかけた。命があるということは、それだけではかないものなのかもしれないが、ときに残酷な傷跡を引きずらなければならないのであろうし、私の抱えている気分の浮き沈みによって、心の傷が普通の人よりも大きく深く刻み込まれてしまうという事実もある。生きていくという試練は、ときに自分自身を酷く束縛してしまうようだ。

自己があり、他者がいる。そこに関係性が生まれ、なんらかの感情が動き出す。しかしながら、現代の生活の中では、気に食わない他者がいれば、そんな面倒臭い関係をブロックして、新しい繋がりを見つけていけばいい。それが可能になってしまった。そんな淡白な関係に、むしろ生産性があるのかもしれないけれども、なかなか味気ないと感じてしまうのは、やはり自bんが大人関係に恐怖を感じているからなのだろう。そして、最近では、人間と会話すらしないで生活し、機械のヘルプによって生活を完了している自分は、もはやそれの方が楽だと感じていることも確かなのだ。確かに、孤独な生活だけれども、何か新しい関係を築くときに、変な心配事を考えなくて済むし、これ以上新たなフラッシュバックを伴うような出来事を抱えたいとは決して思わない。

双極性障害に向いている職業というのは、「事務職」だと言われている。左から右へ淡々と業務をこなしていくだけの仕事。以前、10年前くらいになるだろうか、印刷会社で勤務していたときに、これほど単純でなんの変哲もない仕事があるのだろうかという気持ちと、このまま同じ作業の繰り返しで人生が削られていくのかという不安に陥った。思い出と言える思い出などという記憶もほとんどない。それが人生だという割り切り方もあるのかもしれないけれども、自分にとっての適職であるとはとても思えなかった。だからといって、こんな何一つ変化することのないような生活に、心から満足できているかといえば、なかなかそんなこともないようだし、自分の中に燻っている新しい可能性というのを、まだまだ探求すべきステージにいるのかもしれない。

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