思考力

閉鎖の時に

まるで夢のような惨状。初夢は、まさに「悪夢」。大地震の被災者の方々にとって、覚醒しているいないに関わらず、今も続く悪夢。取り返しのつかない悲劇に見舞われている被災地。これを、どうやって自分の中で捉えておくべきなのか。いっそのこと、目をそらしていけばいいのかもしれないのだけれども、やはり、私の心にだって、充分な人情もあるし、この元旦の悲惨な「日本列島の揺れ」に関して、無関心なことを書くことはできない。

YouTubeのサムネイルも、被災地域のライブ映像や、大惨事に見舞われてしまった人たちの苦痛な叫び声の画像ばかり。嫌でも意識しなければならないこの大問題に対して、自分の心と向き合うことは、もしかすると「些細なこと」になってしまうのかもしれない。私自身の過去のトラウマなど、現状の大震災に比べれば、アリのフンののような大きさなのかもしれないし、それでも、自分の心の傷は消えないことも事実。同じように、この大震災によって、これから抱えていかなければならない心の傷を、トラウマやPTSDとともに生きていけなくなった人だって、一気に増えているのだ。こうなってくると、私の心の物差しというものがあるとすれば、どこに基準を合わせればいいのかも分からなくなって、被災地ではない場所にいながら、心がぐるぐると掻き乱されてしまう。

運転しながら、アップルウォッチのマインドフルネス機能を使って、呼吸を整える。時間は、5分。この5分間に、かき乱された心が整うわけはないが、この積み重ねで、昨年から引きずっている苦しみが軽減されていくのであれば、継続していきたい。それと同時進行で流れていく時間の流れの中で、世界中の時計も針を進めていく。もちろん、日本海側を含めた多くの被災地の人たちも同じ。外的な肉体の怪我は、時の経過とともに言えていくことが多いけれども、心の傷というのは、その限りではなく、むしろ時を追うごとに心の「層」に傷が入り込み、その部分を癒したくとも、どこに薬を湿布してあげたらいいのか、本人ですら分からなくなってしまう。

私は、精神に疾患を持っている。月に2回の通院と、毎日の服薬がなければ生活することはできない。このような精神科の受診や、服薬に関して、時代の流れとともに偏見が弱まったとは言え、「気の持ちよう」とか、遠回しに「甘え」と言われてしまったり、軽くあしらわれてしまったりすることだってある。もし、今の自分が、栖も薬も無くなってしまい、主治医のカウンセリングすら当分の間受けられないとしたら、どうなってしまうのだろう。見えない部分の教官というのは、とても難しいし、何よりも自分が理解できない問題を、他の誰かに相談することそのものが虚しいことになってしまうこともあり、ひた隠しにしてしまうことだってある。被災地の精神に疾患を持つ人たちの苦しみは、酷く相当なものだと思うと、「同情」とか「共感」なんていう言葉が、とても失礼な気持ちにもなってしまう。

これから1週間程度も、余震の心配もあり、これからずっと避難所生活を送る羽目になってしまうことになる人だって出てくる。救援物資の中に、精神薬を入れることはできないし、精神科医やカウンセラーが現地へ赴くにしても、途方もない時間と困難を乗り越えなければならない。自分が全能の神のような「躁状態」で、保護室で大暴れしていた時に、こんな非常事態が起こってしまっていたら、果たしてどんな結果になっていたのであろうか。そして、現状の精神科病院の中で、保護室に入っている患者の気持ちというのが、引き裂かれることを思うと、いてもたってもいられず、そして、やはり冷たい言い方になってしまうけれども、自分が保護室にいるときに自然災害が発生しなくてよかったという気持ちにもなってしまう。この感情は、果たして不謹慎なのであろうか。

この記事に、特別な結論など無責任すぎるので、与えることはできない。精神疾患を持つ方々へ、とにかく早い治療と、毎日服用している薬を手配してもらうことを、心から願っている。

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