思考力

AIの是非を問う教育の遅れ

もうすぐ日付が変わる。こんな時間に記事を作成しているということは、やはり眠れないということだ。睡眠薬を受け取るときに、薬剤師の人が聞いてくるのは、「日中に眠気は残りますか」という質問だが、やはりそれは当たっており、なんとなく薬が残っている寝起きのダルさや、なんとも眠り切れていない日中の眠気。やがて、最近熱中している動画作成であっても、集中力が持続しないような眠気に襲われる。

だからと言って、眠剤を早く飲んだところで、うまい具合に眠りにつけることはなく、ただただ虚しくすぎて行く夜更の時間で焦りを感じるばかり。時差ぼけと薬の副作用のような眠気で、なかなかうまい具合に睡眠バランスが取れない。綱渡りだったら真っ逆さまに落下してしまいそうだが、こちらとしては落下しようがなんだろうが、眠りの世界へ転がり込みたいと願うばかりだ。

動画編集も、かれこれ1週間程度継続しているが、やはり元々編集作業をしていたこともあるし、そのような作業が苦にならないので、かなり凝った動画を多数作成している。今や、AIにお任せすれば、キーボードを弾かなくても、マウスでコピペしていけば、内容はどうであれ、ひとつの作品としてアップロードできる。これを正しいことであるかは、個人の価値観であるし、これを完全に悪だとみなすこともよろしくない。

学校教育や大学でのレポート作成で悪用されることへの懸念もあるが、なかなかそこらへんも個人の価値観や、学生側が受け取る課題そのものが無益なのであれば、AIのレポートから面白い発見ができるかもしれない。教える側の力量があれば、本来は学生の興味を存分に引き出せるはずなのだが、それをする能力がある教師がいないという事実そのものの改善も必要。これでは、「ルーズルーズ」の関係が惰性的に続いてしまうことにもなりかねないし、そもそもの教育というのが、ある程度のプロンプトを出せる能力がある学生なのであれば、自分が受け入れるべき課題などは簡単に見つけられる。

だから、学校教区ににAIを導入するか否かという議論がどうのこうのとかいう問題より、もっともっと手前の状態を改善するべきだし、もはやその必要性そのものが消えゆくしかないのかもしれない。義務教育という制度がそもそもいつまで続くのかわからないけれども、その義務療育を受けている間に、AIに正しく効率的な指示出しを性格にできる能力を持てれば、その学び手というのは、もはや「教師」という存在をほとんどの場面で必要なくなる。だから、ますます学校という現場そのものの必要性がなくなり、いかに既存の学校で学ばなくてもいいことを省き、いかに新しい可能性に情熱を注ぐかという選択肢が見えてくる。

そう考えたときに、今の教育にこそ、AIという存在が必要性が増してくるのであり、今からそのような認識を持てなければ、これからのAI主体の時代が来るときに、対応しきれなくなってしまうのだ。とりあえず、人生のほとんどを英語講師という職種で生活していた自分が、改めて今後の教育のニーズを考えると、どんな年齢であっても、時代の変化にいち早く気づき、既存の概念にしがみつくことなく柔軟な対応を取り入れて行くというのは、とても大切なことだ。そんな新たなステージに入った変遷期にあるAIと教育の世界。ここになんらかの可能性があると信じ、常にそれが何なのかに対してアンテナを貼っておく度量を怠らないことだ。少なくとも、私はそれは第一優先にしたいと思っている。

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