思考力

選択した罪の重さ

私にとっての予備校。これは、予備校という場所を利用して、大学受験を突破した人の多くとは、異質な存在と言える。それこそ、私にとっての予備校の世界は、他の多くの大学受験をした人たちとは違って、職業訓練の場となったわけだ。受験時代に出会った一つ一つの授業が、そのまま自分の「現在の職」に影響を与えているわけで、そのような意味において、私が予備校に費やしたお金と時間というのは、そのまま無駄になったわけではない。だから、受験が終わって、大学生活を過ごし、受験とは大きくかけ離れた畑違いの仕事を選んだ人たちよりは、予備校での勉強が活きていると言える。

「お国のために命を捧げる」。そんな戦時中の日本の考え方のように、予備校にドバドバとお金を投資し、教祖のような存在の憧れの予備校講師の授業以外の知識は、全て間違っているかのような錯覚を起こしていた受験生は多かった。そう考えると、自分自身が熱狂的な信者のうちの一人であり、いまだに「洗脳」が溶けていない、受験生のときに受けた影響が、盲目的にアタマの中にコビリ付いているだけの小さな存在ともいえる。つまり、私は、宗教的な団体に、自分の人生の大半を費やし、これからも「ソレ」に人生を捧げていくこととなる。「盲信」というのは、気付いても引き返せない恐ろしさがある。

私が、受験生だった頃、肩書きがある予備校講師になりたいと思っていた。暴走族上がりの予備校講師や、かつて詩人になりたくて予備校講師に落ち着いた講師、学生運動の後、芸能プロダクションの助手を経て予備校講師になった講師。そのような講師の肩書を知りながら、私は、「サーファー予備校講師」のなろうと思っていた。青臭い話だ。ただ、40半ばになっても波乗りをし、20年前以上には、よもやオリンピック種目にサーフィンが選ばれて、よもや千葉がオリンピック会場になるとも知らなかったが、とりあえず「サーファー」の端くれで、オンライ予備校の関係者でいられるのだから、「夢かないし」といったところなのかもしれない。もちろん、私のライディングが、YouTubeの「Live速報」で流れるような腕前ではないのだが。

ただ、サーフィンが私に「健康」を与えていることは事実のようで、けっこう乱れた食生活で、波乗り後にも「家系ラーメン」をドカ食いしているのだが、ジーンズの腰回りにはゆとりがあり、細身のジーンズも履きこなせている。ジムに行って、意図的に筋トレをしているわけではないのだが、サーフィンを3時間以上ブッ通しでやる日々が続けば、筋肉も素直に「自己防衛反応」を示すようだ。これは、思わぬリターンとも言える。摂取カロリーよりも消費カロリーが上回れば、文句なく体重は減るのだから、遠慮なくサーフィンをして、思う存分喰えばいい。カンタンな話でもある。

では、その食べ物の「質」はどうかと言われれば、なかなか答えにくい質問だ。安価で大量に日本へ入ってくる、中国食品やアメリカ食品。そこに添加物をヒタヒタにして、保存期間を伸ばしていけば、そこには毒の塊が生まれる事になり、それをドカ喰いするのも、なかなか勇気がいる。また、サーフィンに行かない日にも、容赦無く腹は減るわけで、よく言われる「リバウンド」を招く。やはり、アメフト選手のような肉体を維持するのにも、毎日の運動が不可欠であり、中途半端な意識で運動をして食事に気を配らなければ、YouTubeの健康動画の知識も、ただのトリビアになるばかり。

ただ、そのような健康系動画を視聴していると、何も食べられなくなってしまうことも事実であり、人間の「食の喜び」が奪われてしまうということも、また事実。健康系動画の中にも、これからの医療革新のスピードのおかげで、多くの病気が治るということが、データとともに明らかになっていることもあるので、自分のカラダが朽ち果てる前に、医療の進歩のスピードが私を救ってくれるのを待つという手もある。それくらいドッシリ構えていなければ、人生そのものを楽しめなくなってしまう。心配事の“96%”ほどは、実際に起こらないと言われているし、そのデータだって、海外のお堅い研究チームが証明したものだ。決して、スピリチュアルな世界の妄想ではない。

今日は、BGMをかけることを、すっかり忘れていた。土曜の朝のJazzとか、最近気になるヒップホップジャズ。そんな中、「サマーカフェ」なんてタイトルの曲まで出てきた。万年、常夏のハワイのような生活ではないが、思い立ったらサーフィンに行ける環境が整っているので、特に、サマータイムを意識することはなかったのだが、世間一般では「夏近し」という季節なのだ。緊急事態宣言の中にもかかわらず、なぜかオリンピックを強行するような声が、政府の中では聞こえてくるし、その隣のニューストピックでは、コロナの影響で閉店する老舗のニュース。さらに、その隣のトピックは、変異株のニュース。

コロナに、日本がコロコロと揺さぶられている様子。その様子を眺めている国民のイライラも、もはや呆れ返ってしまうモードに入っている。もはや、ニュースに対するコメント欄の意見が、同じような声で溢れ、自分の意見も同じようなモノ。そうなってくると、自分が何をできるのかといえば、ニュースは週一回程度、参考程度に視るくらいにして、自分の生活を整えることくらいだ。押しても引いてもビクともしない世の中なのであれば、そこから身を引いて見物するという選択肢を選んでも、別に罪は問われないと思っている。

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