思考力

遠慮なく自然

続く、過食と過眠。さすがに此処までくると、医者の耳に通しておかなければならぬと、昨日は、主治医に相談した。私の主治医の処方は、いたる精神科の医師たちであっても、「天才的」と称賛される薬の配合をしてくれ、それも20年以上の付き合いとなっている私の細かな症状も、しっかりと把握してくれているので、とても頼りになる。昨日は、今の私を苦しめている先述した症状を緩和するような薬の配合で処方してもらった。全体の薬の種類は同じまでも、容量が「mg単位」で変更となっていた。

とはいえ、精神科で処方される薬というのは、症状の変化が目に見えないので、入院でもしなければ、毎日の処方を微調整するのは困難だ。昨日は、少し弱くなった薬だったのだが、東京へ行った疲れからか、なかなか起き辛く、立ち上がるなりフラフラとしてしまい転倒しそうになった。やはり、数値化できない精神薬というのは、とても難しい診断が必要なので、それこそトンチンカンな医者に処方された薬など、恐ろしくて服用できやしない。まさに、精神科医を選ぶ時には、薬さえもらえれば良いという短絡的な考えを持つことは御法度なのだ。

私のような気分障害をもつ人たちが、私のTwitterのフォロワーに増え、その人たちのツイートがタイムラインに出てくるのだが、やはり、自分の心の状態を上手く手懐けることができず、心が引き裂かれるような呟きも多い。とても気の毒だと思う反面、中途半端にアドバイスなどを送信してしまえば、こちらの精神状態も悪くなるので、やはり見守る程度がちょうど良いと思っている。冷たい言い方に聞こえるのかも知れないが、やはりここの部分に関しては、キッチリとした線引きを引いておかなければならない。

精神科医、カウンセラー、ナースに至るまで、患者の苦しみに耳を傾けつつ、その苦しみに呑み込まれぬよう、きちんと線引きをする訓練をしているそうだ。仮に、その線引きが曖昧なのであれば、両者ともに良い結果を得ることはできない。このことを、しっかりと成し遂げられないのであれば、心の問題という、とっても繊細な領域に踏み入ってはならないのだ。そして、このことは、患者側も理解しておかねばならず、全てを他人任せにするのではなく、アドバイスを受けたのであれば、それを正面から受け止めることができるだけの休息をとり、そこから立ち上がるだけの勇気を出すということは、絶対に理解しておいた方がいいと思っている。おんぶに抱っこというのは、治療を受ける側にとっても良くない。最低限のマナーと節度をもって、治療に向かわなければならないのだと思っている。

東京から千葉に向かい、自宅の最寄駅に着くと、目が不自由な人が電車から降りてきた。直杖と呼ばれる目が不自由な人が持つ杖を動かしながら前へ進んでいた。なかなかうまく歩けない。どうやらいつも乗る車両の位置とは違う車両に乗り込んでしまったのだろうか。自然と声をかけている自分がいて、「何か手伝いましょうか」と言っていた。すると、その方は、一回のトイレまで連れて行ってくださいと応えてくれた。

手を引こうとすると、肩を貸してもらうだけでいいと言ってくれ、歩く速度はもう少し早くてもいいと言ってくれる。エレベーターのところまでくると、ここら辺まで来れば、大体のことはわかるけど、念のため、トイレまで連れて行ってほしいとのこと。トイレの前まで連れて行ってほしいと言われ、トイレの前で待っていてほしいと言われたので、そこで待っていることにしたが、やはりもう大丈夫という応えがかえってきた。この記事の精神科の話とリンクさせるとするならば、それ以上援助することは、お互いにとって良くはないのだろう。トイレに入ったことを確認し、その場を去った。

障害のある人を、自然と援助できる社会が整っていて、援助される側とする側が、どの程度までの支えが必要かということを対話できる社会。そして、どこまでが可能なのかということを聞き、目的が達成できたのであれば、そこで援助することをやめてみる。このような環境が、自然と整っていれば、もっと住みやすい世界が広がるのだ。昨今、「ヘルプマーク」の認知度が低く、精神障害者が、電車などの障害者優先シートに座ると、文句を言われるようなことがあるそうだ。無知は愚かなりと言ったところだ。やはり、目に見えずとも苦しんでいる人を支えるためには、少なくとも自分の知識を広げておかなければ、相手を傷つけてしまうことに繋がる。避けられる衝突は避けるべきであり、協力して流れがスムーズになるのであれば、援助の手をスムーズに差し伸べ、それを積極的に頼れるような社会。やはり、今の時代には欠かせない心のケアなのではないだろうか。

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