思考力

先手が見えないということ

やはり、どこかで自律神経が乱れているようだ。目が覚めると、寒くて仕方がない。フラフラとトイレに起きて、寒さのあまり、ダウンジャケットを着込んで、二度寝をする。カーテンを開ければ、平和な春の日差しが差し込んでくるが、どうにも布団から出ようという気にはなれず、眠気が冷めるまで眠気そのものを出し切って、やっとのこと布団から這い上がってみると、お菓子とジュースの抜け殻が、床に転がっている。眠れずに焦ったまま、コンビニへ「奴等」を買いに行き、ドカ食いしていたことを思い出す。再生時間10時間以上のリラックス系睡眠BGMを、中途半端な覚醒状態のまま、2回再生して眠りを促していたようで、親友のiPad第6世代のバッテリーは、尽き果てていた。親友も熟睡できたようだ。

そんな皮肉めいた冗談を書いている今、頭が悪い人がやりがちなことを意図的にやっているようで、目が覚めるなり、いつものブログを綴る習慣を断ち切り、そのまま居酒屋のランチタイムのカキフライ定食をドカ食いした。帰りの車では、コンビニのスナックを片手に家路に着き、今、こうやってダラダラとした雑文のような始まり方をしているブログを書き始めている。やはり、愚かな人がやりがちな生活習慣だ。でも、大丈夫。いつもと同じように、手書きの下書きの原稿は作成済みなので、このままの駄文で終わらせるつもりは全く無い。

成功する人としない人の差は、何だろうか。よく言われる「勝ち組・負け組」という基準も、人によって価値観が違うわけで、年収1000万を、1年間で全て使い切ることを生きがいにしている人もいれば、それを浪費だと指摘して「負け組」と決め付ける人もいるだろう。本人にとっての生きがいを、他人が批評する権限などは無いはずであり、自分の価値観や尺度だけで物事を一面的に考えているだけでは、その人そのものの考え方は、いつまで経っても進歩しないことは明らかだ。

確かに、私から見ても、かなり残酷な言い方をしなければならないような職種もあるが、合法的な範囲で、そこに「給与」が発生しているのであれば、その仕事は、誰に批判されることもなければ、評価されることもない。問題なのは、本人が、その仕事に対して、情熱やプライドを持って取り組めているかどうか。今回のブログでは、そのようなことを考えてみたい。

結局のところ、何かの分野で秀でた才能や実力を発揮している人というのは、多分に漏れず、その分野の自分の取り組みに対して、プライドを持っており、特段、何もやりがいを感じずに、嫌々とノルマをこなしているだけでは、どんなことであっても上手くいかないし、全てに嫌気が刺し、全てのタスクが完全にストップしてしまう。私も、自分自身が夢中になれる対象には、本気で情熱を注げるが、興味が湧かないことに対して淡々と作業を続けるだけなら、とっとと次の情熱を注げられるフィールドを探し続ける。「給与」よりも、仕事から得られる「やりがい」が欲しい。ただ、これを「キレイ事」だと罵られることも多々あるが、やはり、この考え方を曲げることはできなかった。このような「頑固者」にとってのベストな生き方は、一人で行動することであり、このブログでも何回も書いた、約1年間の独りぼっちの充電期間で、そのことを十分理解できた。

どんな人であれ、何かしらのチャンスを掴みたいと思いつつも、経験も人脈も種銭も無い状態から、理想のビジネスを構築することは困難である。ただ、私がイメージしている「成功者」は、どんなに独りであっても、自分のビジョンを描き続け、スモールビジネスからであっても、自分の「野望」ともいうべき夢を追いかけ続けている。周囲の「ドリームキラー」に喰い尽くされる時間すら与えないほどの勢いだ。そして、そのような成功者は、常に現状に甘んじることなく挑戦をするから、実績が雪だるま式に大きくなる。このようなループ突入すれば、ドリームキラーではない、賛同者が集まってくる。今の時代でいう「フォロワー」だ。

今、私の自律神経の乱れの大きな原因の一つに、新しい形態での授業を、いかに円滑に進められるかという課題を抱えていることにある。新型コロナウィルスが猛威をふるう前から、日本の教育システムには「時代遅れ」のレッテルが貼り続けられていた。そして、今回の「コロナ禍」における、半ば強制的な変化を強いられたとき、日本の教育現場は、大きな揺れを感じずにはいられなかった。黒板を背にした一人の先生に向かって、先生が書いたチョークの文字を、一斉に二十人程度の生徒がノートをとる。明治時代から変化のない教育スタイル。私も、このようなスタイルを「時代遅れ」だと思っていたが、いざ、自分がオンラインで指導をしていると、やはり、従来のやり方の方が良かったのではという疑問が生じてくる。

欧米で浸透している、タブレットとタッチペンに、オンラインで授業を受けるという方法が、日本では浸透し切れていなかった。電子黒板や、プロジェクターなどの機器は、実は、倉庫の肥やしになっていただけの状態で、別に、機材がなかったわけではない。イマイチ、浸透し切れていなかったというのが、真相なのだ。ここで知っておかなければならないことは、これからの教育現場が「オンライン」に移行することを前提にした状態で、教師も生徒もお互いが顔が見えない状態で、授業が進むのかということ。また、教師が黒板に文字を書いているスピードに合わせて、生徒がノートをとっていくというスタイルそのものが、果たして変化を強いられなければならないことなのだろうかだ。

文字情報より、画像の情報の方が。画像情報よりも、動画の情報の方が。脳に多くの情報を送るのには適していると言われている。それは、科学的データに基づくのであるから否定はできないが、パソコンやタブレットやスマホに映し出された画面をクリックしたりタップするだけで、果たして授業の理解度というのは上がるのだろうか。東京にいた時に、幼い頃から通っていた耳鼻科の内装が一変し、電子機器で囲まれた異様な雰囲気になっていた。いつの間にか替わっていた医者は、こちらの顔を見ることなく、驚愕高速のブラインドタッチでパソコンの画面に食い入るように、私の問診をしていた。まるで、家族で食事をしている時に、子供がスマホに夢中になっているかのようだった。

もう、集団授業の時代は、完全に終わった。それは、実際に千葉の集団指導の授業をして、完全に理解できた。適当に区分けされた学力別のクラスに、講師の選択ができないようなシステムの教育が成立するはずがない。これから、少子化が進み、大学側が学生を「お客様」として、おもてなしをしなければならない時代に突入する。真の思考力を養成するためにも、やはり、「一対複数」の授業が廃れていくことは明白。そして、通学や通塾のための時間を削減するために、インターネットを通じて学習することには、大いに賛成。しかしながら、表情もイマイチわからない生徒に画像だけを見せ、そこをマウスでなぞったり、適当に赤線やマーカーを引くだけで、真の学力向上につながる授業が成立するのだろうか。

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私は、目の前に生徒がいて、その生徒の表情を見て、ある程度の受け手の理解度がわかる。そして、授業中の空気や、間の置きかたに関しても、円滑な状態を察知し、最適なルートを選んで授業を構成していく。これが、オンラインでは極めて難しい。自分の考えが古いからなのか、時代の変化に合わせて、自分の授業スタイルも変化させなければならないのかを悩んでいる。これが、ここ最近の生活と自律神経の乱れを引き起こしている諸悪の根元の一つだ。1ヶ月くらいの試験期間は必要だとは思うが、1ヶ月程度で解決できる問題ではないことも確かだ。

自分の遣っている言葉が、そのまま脳に影響を与えるというが、最近の私の自虐的な行動からして、なかなかポジティブな言葉を使っているとは思えない。そもそも、話し相手がいないから、自分がどんな言葉を発しているのかが、分からない。今日、人間に対して、言葉らしい言葉を交わしたのは、注文を聞きにきたバイトのおばちゃんに、「あ、これ、カキフライ定食」だけ。そもそも、日本語になっていなかった。こんな時代に、どのように受け手とのコミュニケーションを深めていくかは、今後、世界全体が抱える課題となる。

さんざん、自宅をDIYして、ホワイトボードを背に授業を開始しようとしたら、ホワイトボードがライトに反射して映っていなかった。渋々、手元の「書画カメラ」に切り替えたが、自分の表情を相手に伝えることもできない。このような狭間で、いかに効果的な授業をできるのかは、今後の英語講師としての腕の見せ所ではある。世の流れの先手を打って、自分のフィールドを開拓せよ。

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