思考力

視覚はすごい

今朝、母が他界した。知らせを聞いてから、今、この夕方までに実感していることは、「視覚はすごい」だ。

相変わらず、昼近くに目が覚める生活に、コーヒーの粉を買い忘れていたことを思い出し、ほとんど白湯のような薄い茶を飲んだ。朝、ゴミ出しをし損ねていた日々が続いていたので、あまり宜しくはないが、昨晩遅くにポリ袋一袋のゴミを出していた。こうなると、やることは「歯磨き」くらいだ。眠剤特有の口の不快感が残っているので、それを爽快にすれば、けっこう目が冴えてくる。いつもと違うことと言えば、コーヒーが飲めないことくらいだった。

母の死の当日に書くべきではないのかもしれないが、先日、初めて「マッチングアプリ」なるモノに登録し、昨日、課金をした。なかなか深入りしてしまうので、iPhoneは見ないで、Macの電源から入れた。すると、いつもは大人しいiPhoneが震えていた。ディスプレイには「兄」の名前。母の危篤状態で、何年ぶりかに再会した兄と妹であったが、やはり、直接的な衝突は避けられず、次に会う時は、次の危篤状態か、臨終の時となっていた。通話ボタンを押す前に、何件もの着信履歴が残っていたのが、チラリと視えたので、後者の時であると察しはついていた。

朝の5時過ぎに息を引き取ったと言う。何やら、実感は湧かなかった。前回、危篤状態の時に車を走らせた道が、通行止めになっていて、今日も変わらず通行止め。何度、道を変えても、なかなか道が続かない。もう、息絶えたところなのだ。取り立てて急いでいるわけではなかったのだが、車が進む方向には道が続いていない。今考えても、これが何を意味しているのかは分からないし、非科学的なことは信じないようにしているので、あまり意味はなかったのだと思う。あえて言うのであれば、いつでも見舞いに行くと、「来んでいい。来んでいい。」と言うだけの母の気持ちが、遺っていたのかもしれない。ただ、そこまでは、こじつけになってしまうのだろう。

兄との会話、目も合わせない妹。そのまま霊安室へ。顔にかかった白い布をとる。母の顔。その瞬間、涙が溢れて止まらずとも、何やら母の表情が、うっすらと微笑んでいるようにしか視えなかった。「こんな姿見せちゃったね」なんて言って、目を開けて、いつもの歯にかんだクスクスという笑顔で返してくれるのではないかと思った。ただ、今、ここまで記事を書いて、涙ひとつでなかった私の目から、やっと涙が滴り落ちている。母のセリフを想像した時に、クシャッと涙が溢れてきた。なんだか、息苦しい。過呼吸気味だ。明日を越えられるのだろうか。今、久々にビールを開け、ひと口飲んだから、もう自分で運転することはできない。今晩、呼吸ができなくなったら、そのまま救急車を呼ぼう。まだ、母は、「来んでいい」と言っているのだ。

このブログは、いつもとは違って、特別な下書きを用意しているわけではないし、そもそも、ブログを書こうかどうかも考えていなかった。「母が悲しむから」とか言う、お涙頂戴の文章を書こうとも思っていないし、別に、こういう事態が来たときに、書かなくなることだってあると思っていた。今は、日照時間が一番長いこの6月。午後6時だというのに明るい景色に、少しイライラして文章を書いているだけ。もし、これが深夜だったら、ブログなど書かずに、そのまま寝ていたのかもしれない。仮に書かなかったとしても、そこまで悔しいと言う気持ちも起こらなかったと思う。理由は、よく分からないが。

ただ、今日の「視覚」に関しては、やはり遺しておきたいと思っている。だから、この時間にパソコンに向かえるのは、良かった。私は、今日、兄から電話があっても、特段動揺はしなかったし、それから歯磨きをして、口の中がミントの味になったところで、涙は出なかった。ハンドルを握る手の感触、病院へ入ったときの、あの独特なニオイであっても。つまり、「五感」のなかで、「視覚」以外を通して、大きく感情が動いてはいない。ただ、霊安室で見た母のうっすらと笑っているような顔を視て、号泣した。そして、LINEで報告する人に文字を打っているときの日本語の形を視て、それを脳ミソで解釈しているうちに、涙が溢れてくる。やはり、私に限ったことなのかもしれないが、悲しみの感情だけは、「視覚」が全てと言って良いのかもしれない。

コロナ禍で面会ができなかったことは、私にとって、とても良かった。これは、断言する。完全に寝たきりになる前なら、幼少期からの不満を母に言い続けていただろうし、寝たきりになってからだったら、顔を見るたびに泣いていたはず。Zoomの5分間の面会の後、机に突っ伏して泣いていたくらいだから、実際に会って面会することなど無理だった。臨終間際、親の死際と言うのか、私は立ち会えなかった。でも、一緒に千葉に来て3年くらいなのか、母と過ごせて、本当によかった。もちろん、一緒に住んで、付きっきりで介護していたわけではないけど、一番近い場所で過ごせて、きっとお互いにとって最高の状態に行き着けたのだろうと思う。

一命を取り留めた2回目の危篤状態での面会では、母は寝ていたのか、意思疎通のコンタクトは取れなかった。ただ、1回目の危篤状態の面会で、母は、私に「社長。社長。」と言ってくれた。これは、自分としては、最期の最期の安心材料をあげられたのかなと想っている。まさか、「ナマポニート」なんて言葉を聞いたら、安心して天国へ逝くなんてできないのだから。なぜか、最後の2回の「Zoom面会」では、母は、よく笑い、母は、よく喋った。入院してからは、顔色も悪くて、蚊の鳴くような声でしか話せなかったのに、なぜか、大きく笑いながら喋ってくれた。その時も「社長。社長。」と喜んでくれていた。よだれを垂らしながらなのに、嬉しそうに笑いながら話をしてくれた。

私のことを誰よりも知っていて、私が誰よりも甘えん坊で、私のことが心配で心配ででしかたなかった母。44年間、1日たりとも私のことを気にかけなかった日はなかった母。今、こうやって、自分の打ち込んでいる文字が、涙で掠れて見えなくなっていて、拭いても拭いても涙が止まらなくって、呼吸が苦しくって。どれだけ私が母に支えられていたのか。もう、誰にも頼ることはできないってわかっているんだけど。結局、何も感じないように振る舞って書いているつもりでも、やっぱり声を上げて泣いている自分がいる。もう、こんな甘えん坊のことを、「この世で」心配してくれる人はいないんだね。

-思考力