思考力

耐え抜けぬ記憶

昨晩は、何やら実験的に、風呂に入らないで眠ってしまおうと考えた。でも、習慣というのはすごいもので、風呂を沸かしながらデンタルフロスをする習慣が、もはや風呂に入らなくても自然と生活に組み込まれていて、このまま風呂を沸かしてしまおうかという気持ちにさえなった。とはいえ、実験は実験で実行しなければならないと思い、最近習慣にしつつあった寝る前のストレッチもやらずに、就寝した。目が覚めると、特に膝に鈍い痛みがあり。鋭痛というよりは、鈍く曲げにくい痛みと重さが加わっていた。

こうなってくると、睡眠の浅い深いは別問題としたトラブルが発生する。いつも通りスケボーを蹴り出しても、全く膝が曲がらず、昨日から始めていた、恥ずかしい地鶏スケボー動画も、なかなか撮影できぬまま練習を終わらせた。その撮影中、何度も風の抵抗を受け、必死に耐えていた「iPhone SE」は、地面に叩きつけられてしまい、帰りの薬局では、虫の息となってしまった。そのまま行きつけの量販店の電器屋で、「自撮りスマホスタンド」を見つけ、お得意様割引価格で購入して家路についた。

これといった出来事もなかったのだけれども、そもそも具体的なアポなどがない自分は、起きたいときに起きて、寝たいときに寝ればいい、資産所得のない「FIRE生活」を送っている。このようなストレスフリーな状態で、下手に刺激を求めて企業で働き出したり、もうあんな辛い思いをしたのだから、今度は大丈夫だなどという、根拠もないような自信で自らを奮い立たせてはならない。これは、いじめられっ子だった人が、社会に出てからの歪んだ認知として抱いてしまう思考回路であり、まさに今の自分が、そのような考えに陥りがちだ。だから、この「無菌状態」を謳歌するのは、誰に何と言われようが、平然と続けていればいい。「働かないとボケるぞ」という人もいたが、結局のところ、そんな心配をしてもらったところで、下手に働き出して体調を崩したところで、その人が助けてくれるわけでもないし、そういう人に限って、「あの時は焦らせておきながら笑っていた」などという「鬼」のような捨て台詞を吐いて去って行ったものだった。

テイカーとマッチャーとギバー。これは、心理学的な観点から出てきた言葉のようだが、やはり、最終的には「テイカー」が、私腹を肥やすという面において利益や利潤を得る。その獲得の仕方が上手いテイカーほど、自分はマッチャー的な立場でこちらを見守ってくれているという甘い台詞で、こちらの懐を狙っている。総じて、私のような双極性障害を持つ人というのは、そう状態の時に羽振りが良くなって、それを分かち合おうという気持ちが強くなり、そこを根こそぎ持っていこうという者が、我先に集まってくる。今思い出しても、吐き気や寒気がするくらいだ。

やはり、双極性障害の人が気をつけなければならないのは、「苦しみを伴ったギバー」だ。与えながら苦しむという状態が、いつの間にかタイかーがより喜んでもらえるようにという考え方にシフトしていき、帰ってくるはずのブーメランが、「捨て台詞」であったりする。そのような悪質なテイカーは、今まで多くはないにせよ、確実に存在していたというのは事実だ。だから、自分にとって、最良なアドバイスだったとしても、その人の腹のそこをスキャンしたときに、その腹黒い心が、癌細胞のように染み付いていないかを考えることは、とても重要なことである。

喜びをシェアできる関係。そこには、利潤という物差しが発生しなければ、それは理想の関係になる。仮に、そこに一瞬でも「テイカー」の要素が光っているのであれば、その場でたまたま出てしまったアクシデントだったとしても、一目散に逃げていかなければならない。それは、たった一回であれ、その人と「時間の流れ」が、一致しなかったのだ。本当はいいやつなんだけれども、という言葉もある。でも、「根はイヤなやつ」というのが、今までの記憶の履歴を探してみると全員が該当している。それならば、スマホの電話帳のメモリーを削除するように、バッサリと切り捨ててしまう勇気を持つ。仮に、それが風になぎ倒され得てメモリーが全て飛んでしまったとしても、どうせ時が合わぬ人との繋がりなどいらない。そして、また出会える人というのは、必ず向こうからこちらの電話に着信を残してくれる。人間関係のリセットには、厳し目の「風」が、必要なのだと思う。

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