思考力

振り向ける眼

ダサすぎるとしか言いようがなかった。車の後部ラゲッジの隙間に、スマホを挟んで、恐る恐る自分のスケーティングを録画した映像。観るも無残な体勢。こんな情けない姿勢で、自分は意気揚々と、多くのサーファーがいる駐車場で滑っていたのかと思うと、本当にガッカリとして、イメージとかけ離れた自分が、スマホの中で動いているのを、眺めるばかりだった。自分が、YouTubeなどで「悪い悪い」と指摘していた部分を、紛れもない自分が反復練習していたのかと思うと、今までの気持ちが虚しすぎて、帰り道は意気消沈してアクセルを踏んでいた。

塾講師として英語を指導し、それに磨きをかけるために、自分の授業を録画し、それを練り上げて、友人の観ている前で再現する。そんなことを繰り返していた30歳の頃。やはり、自分の姿というのは、生物学的に考えれば、自分の肉眼で見ることはできない。かつて一世を風靡した『寄生獣』と言うアニメならば、自分の顔を肉眼で凝視できるのかもしれないが、やはり自分の動きというのは、鏡ばりの前で行うか、何か撮影手段を決めて、それをメディアにする以外ない。正直、目をそらしていた自分のライディングが、本当にかっこ悪い事に、落胆する。

人の振り見て我がふりなおせという言葉がある。そして、自分の「振り」というのは、やはり客観的な視点から考えると、自分の考えやイメージからは遠く及ばない場合がある。それこそ、自分がやられて嫌なことを、相手には絶対にしてはならぬと思っていても、どこかで誰かを傷つけてしまうことだってあるし、そんなに気を遣われてしまって、相手が恐縮して離れて行ってしまうことだってあった。もちろん、そこをつけ狙って、自分から獲れるだけ奪って去っていく者もいた。そんなことを振り返ってみると、やはり自分の行いを、できる限り実際の動きを見ながら、冷静に振り返ることは、とても大切なことなのだ。

このブログをYouTubeにアップロードするという作業も、最近ではすっかりと慣れた。とはいえ、すんなりと習慣付いたものでもなく、ブログ記事のYouTube音声アップロードをし、過去の記事も併せてどんどんアップしていこうと思えど、過去に書いた自分の記事を読み返すことが、とても苦痛になってしまって、一気に精神的にダメージを受けてしまい、そこからアップロードは、その日に書いた記事一つだけという決まりにした。やはり、自分の過去の思いや考えというのを、改めて考えるというのは、とても心理的なストレスが多いこととなってしまう。だから、文章を書くという事には、「責任」が伴うという事にもつながってくるのだが。

相手を、自分の考えからズレていると言うことで非難することは容易い。しかしながら、それは自分の生き方が、自分が思い描いているのと大きくズレていてはならない。それは、相手を責めるときの大前提と言うよりも、「マナー」である。それを蔑ろにして、自分の態度ばかりが正しいと思い込んでしまっているのであれば、実は自分の生き方というのは、全くのデタラメで、本質を見失っていたのは、他ならぬ自分だったりもする。それに気付いたとき、後戻りしたり、白紙にして再び歩を進められるかは、その人次第だとも言える。そこに、自分のひめた可能性を開花させられるチャンスがあるのかどうかはわからないのだけれども、せめてもの救いは、相手を見て、自分の考え方と違っているときに、それを完全な反面教師にすることなく、どこが自分とズレていて、そしてそのズレている部分というのは、自分と対比させたときに、正反対なのか、もしくは共通点があるのではなかろうかと、多角的に考えることは、とても大切なこと。そんな多様性を気づかされる自分の情けないスケート動画だった。

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