思考力

洞察力を転がせる

明日は、東京の病院へ行くのに、一泊するため、余裕を持って今のうちからブログを作成しておく。この一日1記事作成ブログであっても、もはや日々の「歯磨き」の状態にまで溶け込んでいるので、仮に一日でも描かない日が出るかもしれないという危険性が出てしまうと、妙に落ち着かなくなってしまう。そんなこんなで、今日も夜に記事を更新することになったのだが、昨日とあえて違うことといえば、マッチングアプリなどという事に関心がなくなっていて、今はこれからの地味な暮らしについてばかり考えていたということになる。

久しぶりに海岸線へ行き、スケボーを蹴った。すぐに膝に鋭痛が走る。それもそのはず、体重が見事に3キロ以上増加しているのだから、久しぶりにスケボーを蹴れば、すり減った軟骨が無い部分に負荷がかかるのも当然。ちょうどYouTubeで、1キロ体重が増加すると、膝にかかる負担というのは、単純計算で1キロというわけではないみたいで、その3倍という数値の目方が、スケボーという悪魔が膝を酷使する動きを伴って痛めつけるわけだから、当然痛む。でも、久しぶりに潮風を感じながら、太陽の光を浴びられたのは大きい。十年に一度だかの暖冬となった今年の冬、アップルウォッチの気温計は、16度を示していた。海辺に浮かぶサーファーたちも、ユラユラと気持ち良さげに動いていた。

今日は、2回も派手に転んだ。しかも、1度目と全く同じ転び方をした2度目。距離としては、蹴り直して5メートル程度での不甲斐ないミス。路面がボコボコで、小石が舞うような状態の道だったのだが、今使っている一番の「暴れん坊」の板は、少しの衝撃でボードの先端から地面に突っ込むような容赦のない角度で刺さってしまうので、小石の危険とは隣り合わせになってしまっている。この現象には注意していたのだけれども、まさか二回連続での同じ転倒には驚きつつ、周囲のサーファーの目もあるので、こんなことは当然という姿勢で立ち直った。とはいえ、運転席に着いたら、掌からは血が滲み出ていたのだが。

同じ状況ですぐに転ぶということはなかった。今までのスケボー歴の中でも激レアだ。しかも、全く同じ転び方。足の角度や腰のねじれ、手のつき方など、想定外の転倒の中にも、同じ要素がかぶると、一体自分の動きに何があったのかという疑念が生じる。ここでの反応はいくつかに分かれるのだけれども、こんな痛い思いをするのなら乗ること自体を辞めてしまうとか、道具のせいにするとか、環境が悪いとか、体調が悪いとか、などなど。これで踏みとどまって考え、次につなげることが何よりも大切なことであり、最悪なのは、何もかも嫌になって全てをやめてしまうことである。

初めて走るビーチの幅5メートル程度の道を、できるだけコンパクトな動きで抜けていく。突き当たりは砂しかないので、Uターンして戻る以外ない。その帰りに転倒。それも、二回。そもそも、引き返してくるのだから、同じ道をすでに経験しているはずだ。それでも転んでしまうということは、何かに原因がある。これは何か。言い訳ではないのだけれども、一番の「暴れん坊」は、予想外の動きをする板で、特に小石を拾うと転倒する危険が一気に高まるという板。実際、そのように言っているYouTubeもあった。だから、不測の事態に対応できなかったとはいえ、結局のところ、その「相棒」そのものにも、弱点や補えない部分というのは存在する。つまり、パーフェクトな相棒というのは、存在しない。だからこそ、分かり合えるはずの「人」との関係であっても、全てを盲信することは避けなければならない。

話が少し大袈裟になってしまったのかもしれないけれども、結局のところ、自分以外の何かに原因を考えるときに、それをエクスキューズの形で押し付けるのではなく、あくまでも「プロポーズ」の状態で解決に導いたほうがいい。それが今後の関係にも大きな影響を与えるのかもしれない。二度の転倒から絞り出したことは、このくらいだ。ただ、ある現象が起こって、それがとても些細なことであったとしても、自分の考え方や生き方、そして過去の体験やこれからの目的などを見つけるときに、大きなつながりを持つものかもしれないという視点は大切にしたい。仮に、今、自分の目の前にある水筒に、何も入っていなかったら、自分は水を給水しなければならない。こんな普通すぎて、当然のありふれた事柄から、実は何か大きな発見や考え方のヒントが満ち溢れてくるかもしれない。くだらない詐欺の「いいね」を期待するより、自分の中の生き方の中に「いいね」を見つけてあげたいと思う。

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