思考力

波立たぬことの確認

今日は、祝日だ。もちろん、私は「万年サンデー」なので、世間が慌ただしく過ごしている中で、街が何だか混雑しているなと思うくらい。そして、田舎の生活では、それほど変化が見られず、強いて言えばカラオケ屋の予約が取りにくいと言ったことくらい。さらに言うなら、海がサーファーで多少混むくらいだろうか。やはりこれらも私にとってはどうでも良いことだ。ただ、今日に限っては、なかなかそうではなく、かなり違った日となる。

母の納骨の日だ。2年半以上、骨壺に入ったまま、お墓に入れられなかったのだが、今日、寺の合同墓地へ埋葬することとなった。日取りは知っていたのだけれど、いざこの日を迎えると、月日の流れを早く感じた。もう年の瀬でもあり、まさに「師走」を迎えようとしている中、塾の講師であれば一番の書き入れ時である直前講習が迫っているのだから、「講師は走る」状態の時期である。もはや会社勤めとは縁のない私も、塾講師時代の忙しさは、思い出すだけで心が重くなってしまう。

昨晩は、なかなか寝付きが悪かったものの、冷蔵庫にある容器に入れていた自炊のおかずを腹に入れて眠気を誘発し、そのまま眠れた。寝起きも悪くないので、今日の体調は万全と言える。母を埋葬するにはとても良い日となりそうだ。そして、朝はバタバタしてかけなくなりそうだと思っていたブログでさえ、こうやって朝の時間に優雅に書き上げられている。何かしらのよっていがあれば、朝の眠気を取り除けたり、夜の眠気を誘発できるのであるから、何かしらの仕事はしておくべきなのだと思う。やはり、人とのつながりだって欲しいと思っているのだろう。「FIRE生活」を迎えられた人が、仕事に戻るともよく聞くし、そのまま老後へ突入した人が一気に認知症になってしまうと言うことも聞く。やはり、人とのつながりと生きる課題というのは、人間らしく生きるためには切り離せないのだ。

改めて何かを書き記そうとは思はない。今日は、ただ心を穏やかにして、埋葬するお寺に向かおうと思っている。だから、特別な結論を用意することもなく、文章に変化球をつけることもしないただ、文字を書き連ねることで、自分の心の状態がフラットであることが確認できた。このような波打たずに平穏を保てると言うのは、とても良いことだと思う。毎晩泣いていた母の骨壺の前にいた自分が、そのことから距離を置けていると言うことにつながっている証なのかもしれない。そう考えられる記事をかけたのだから、それで満足だ。

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