思考力

遺し去る

昨日は入れなかった風呂も、今日は入れた。何事も、「ゼロからイチ」にすることが難しく、初速さえついて仕舞えば、それで目標の半分以上は、完了していると言って良いのかも知れない。これは、自分の今まで生きてきた中での経験則でもあり、周囲を見ていても、やはり意を決して挑戦を開始した順に、大きな成功を収めている者が、多数派なのだ。今現在、友人と言える人がいない自分は、誰かを何を基準に評価することもなく、ただひたすらに健康に留意して生きているばかりである。

でも、賃貸ワンルームの部屋の中で、何もしないでゴロゴロしているだけかと言われればそうでもなく、きちんと、SNSの発信活動は行っていて、TikTokやInstagramの発信に力を入れて画像を作成している。このブログ記事作成を元にして、この文章をYouTubeにアップしていることが追い風となって、先ほどの両輪を、うまく回転させられている状態だ。だから、なんらかの発信活動をして、自分の存在というか、自分の考えを、外部に訴えかけることが、生きていくことの価値の一つになるのかも知れない。もう、自分の子孫を残す気もしないし、生涯の伴侶を求めているわけでもない。でも、やはり何かを遺したいという気持ちは、自分の中の人間としての本能なのだと思っている。

どうしても消えないトラウマに苦しんでいる。ある出来事の一つに、ポッと火種がついて仕舞えば、まるで銃弾爆撃のように、自分の心が撃ち抜かれてしまう。ただ、文章を例えにするのが正しいのかどうかはわからないのだけれども、一語一句、丁寧に対処して噛み締めるようにして読むよりも、まず全体のアウトラインを掴み、そしてその全体から細部を見渡すような読解方法だってある。だから、一々の詳細を思い出して、そこで立ち止まったり、下手に飛び蹴って、その足元に別の地雷があったなんていうことも避けなければならない。常に全体を考えてみる。枝葉末節に考えない。そうしなければ、現在の自分が、過去の負のオーラを引きずりつつ、未来への悪影響を与えてしまうことにもなりうる。それだけは避けなければならない。

人間は、その太古からのDNAにより、ポジティブな記憶よりも、ネガティブな記憶の方を、強く心に刻むようになった。それは、脳科学てkにも、心理学的にも、精神医学的にも明らかになっている。それに抗うことは難しいのだけれども、自分のように、極端に過去のネガティブな要素に足を引っ張られてしまうというのは、やはり問題がある。それがあってからこそのブログなのかも知れないし、そのような意味では、自分の文章のキレや深さというのは、自分のDNAに刻まれた脳の構造の「抗い」から生じていることなのかも知れない。

今、日付が変わり、深夜に突入しようとしている。そうなってくると、自分の中で、眠れないという恐怖が襲いかかってくる。そもそも、人間は、夜行性の生き物ではないのだから、こんな夜中に、カタカタとキーボードを打っていてはいけないのかも知れないのだけれども、「名作は夜生まれる」なんていう言葉にもたれかかりながら、今日の分のブログを完成させてしまおうと思っている。自分がこれからどの方向へと進んでいくべきなのか。そして、自分がいつこの世から消え去ってしまうのだろうか。人間はどこからきて、どう生き、どう消えていくのか。これは、古代から多くの哲学者や芸術家が悩み苦しんできた問題であり、その結論というのは、もちろんまだ出ていない。おそらく、死の直前に「ポンっ」と浮かび上がることが答えになるのかも知れない。

けれども、人間は決して生き返らない。それでいて、人間はいつか必ず私を経験するという、厳しい掟に抗うことはできない。今、ふと他界した大切な人たちの顔が頭をよぎった。不意に涙腺が緩みつつ、はたまたそのような人の最期に、果たして自分の記憶は、どのように遺って逝ったのだろうかと、不思議に思った。大切な人がいて、その人がいるから生きている。だから、死ねない。自分が死んだら悲しむ人が必ずどこかに存在していて、その人のために自分の生きている痕跡を遺したいと思っている。今回の深夜に書いた記事は、とても神秘的な謎を含んだ、深みのある内容となった。それは、ハッキリと自覚出来た。

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