思考力

椅子の恐怖

昨日ほどではないながら、今朝も過去の嫌な思い出を思い出して起きるこことなった。人間、習慣というものは恐ろしく、60日ほど同じことを繰り返すと、それが当たり前のこととして定着してしまうし、原始時代からの本能として、たとえ嫌なことであれ、集団行動の中での行動秩序を守ったり、身の危険を察したら、この物事に対してトラウマのような悪い記憶を頭にこびりつけようとする。やはり、このような目覚めを酷く長く続けていたら、脳ミソそのものが悪い記憶に侵されてしまうようだ。やはり、どう考えてもハッピーなほうが人生を多く楽しめるだろうし、苦しみの果てに喜びがあるという考え方も悪くはないとはいえ、自分を追い込むような考え方は絶対に良くない。

私が一番辛い鬱を経験した大学三年半ばからの1年間。周囲は、どんどん就職活動をし、それが終わる頃、卒業旅行などの計画を立てている。完全に周囲から置いていかれてしまった心境で、自分はとにかく横になって眠れるだけ眠り、今考えると完全に的外れな診察と、滅茶苦茶な薬の服薬を継続していた。今考えると、こんな治療もどきなことをしていたのであれば、大学生の頃の楽しい思い出を作ることなど、到底できなかったのだと悔しさが募る。まして、大学に行ったところで、薬の強烈な副作用で、椅子にじっと座れない地獄のような症状に耐えなければならなかった。あれは、今考えても地獄だったとしか言いようがない。

そういった意味で、現代はとても恵まれている。トラウマという言葉が浸透していたり、椅子に座っていられないことが何故なのかとか、鬱に関する治療はカラ元気ではなくシッカリとした休息だとか。何でもかんでも根性論にしたとしたら、とんでもない結末しか待っていない。トラウマなんて言葉を知らなかったり、PTSDという言葉そのものを知らなかった、当時の年老いた無知な女性医師からの説教を聞かされなくて済んだはず。Googleで検索をかければ、自分の受けている診察が正しいのか間違っているのかが、おおよそ分かる時代。現在の自分が過去の自分のどん底を振り返ると、インターネットの力の偉大さを知る。私がどん底の頃などは、横になって本を読んで自分の症状を知りたくても、そんなことはできないくらい苦しかった。そもそも鎮座できないのだから。

今は違う。SNSを開けば、たとえ「病垢」であっても、自分の心に大きな傷を背負って生きていたり、自分と同じ苦しみを抱えているような人が莫大に存在することを知る。それこそ「オススメユーザー」などにあがったTwitterのフォロワーは、AIが自動的に同じような考えをしている人を捜し出して表示してくれる。こんな状況に陥っているのは自分だけだと思い込んでいたが、実は自分と同じか、精神的にもっと苦しい状態にある人の存在を知ることができる。やはり現代のネットの力と影響力というのは、凄まじい変化をもたらせたのだ。

もちろん弊害だってある。そのような精神的に追い込まれてしまった人たち同士が、言葉の戦争のような状態に陥ってしまったり、自分の悩みが少しだけ世間とずれていたりすることだってあろう。ただ、インターネットなどなく、テレビを観ることしかできないまま、暗い部屋の中で布団に包まってガタガタ震えているよりはマシだ。過去の自分を称賛するわけではないが、やはり自分が乗り超え生還した暗中は、とてつもなく深く苦しみを伴う道のりだったのだ。これだけは、確実に言える。

今日のブログは、何やら過去の悲惨な体験談をバラ撒くような記事になってしまった。こんなことを継続していれば、さすがに悪い精神状態が当然のこととなってしまう。それが心の習慣になってしまったら、今日書き上げた鬱の状態に舞い戻ってしまうかも知れない。あれほどの苦しみなど滅多に体験できるはずはないが、万が一、その泥沼に落ちてしまったら、とんでもなく悲惨な状況になってしまう。今回のような文章を綴ることは控えるよう努め、少し無理をしてでも、明るい記事や心構えを綴れるようにしたいと思う。

-思考力