思考力

枯れどきに手を差し伸べる

気持ちばかりが先走ってしまい、肝心なことをすっかり忘れていることが多い。そもそも、その肝心なことが何だったのかを思い出すことも苦戦することすらある。昨日の「ドタバタ東京受診記録」は、もう昨日の記事に書き記してあるので再度繰り返し書く必要もあるまい。しかしながら、今日は、寝起きから気分がすぐれず、一日中引きこもり生活をしてもいいかと思っていた。ただ、何の拍子か、どこかを拭き掃除していたら、一気にやる気に火がついて、そのまま部屋の外に面している窓の全ての掃除を、外側からピカピカに終わらせてしまった。だから、窓に関しての大掃除は、年内に無事終わったことになる。

もちろん、ルンバを作動させて掃除をヘルプしてもらっていたのだけれど、どうもルンバの調子が悪く、けたたましい音を立てて掃除をするようになってしまい、もはや、これまでの修理歴を考えても、ルンバと自分との相性が悪いのかと諦めかけていた。でも、Googleでルンバの異音を解消する記事や動画が多数上がっていて、その通りにメンテナンスしたら、とんでもない事実が発覚した。何と、ルンバの本体内部に、歯ブラシが内蔵されていたのだ。埃を吸い取るだけのメカだと思い込み、さらに性能にまで疑問を抱いていたのだが、それはこちら側の偏見であって、ルンバは指令以上のことを、身を粉にして頑張ってくれていたのだ。

スケボーを蹴りに海岸へ向かいたかったのだが、どうしてもスケボーの工具が見つからず、何のための断捨離整理だったのか不明にもなった。車のガソリンの減りは、いつもより少なく、これが意味しているのは、二日程度車を動かさなければ、それほどガソリン代がかからないということだ。言い方を変えれば、自分がいかにこの愛車に依存しているのかがよく分かる。海岸で潮風に当たりながらコンクリートウェーブを滑っていると、もはや海や波のことなどどうでもいい自分がいて、いかに滑らかな路面で板を蹴り込めるかばかりを考えるようになっていた。もう、自分にとっての生きがいは、海の中ではなく、アスファルトの上なのだと実感するばかりだった。

多少のフラッシュバックはあれど、ここのところのトラウマの顔出しは弱まっていて、車から流れてくるYouTubeの音声も、スッと自分の頭に入ってくる。でも、AIがオススメしてくる動画は、どれも似たり寄ったりで、音声のみを聴いていれば、同じような着地点に到達する話ばかりだと気づく。逆を考えれば、いわゆるインフルエンサーたちが同じことを言っているのであれば、そこには「コア」となる内容が詰まっているわけで、自分の頭の中に染み込ませるには、とてもいいことなのかもしれない。

ふと、部屋の隅に目をやると、もう諦めかけていた観葉植物が、見事に復活し、どんどん大きくなっていることを実感する。正直、鉢を変えることを観葉植物のスタッフから提案された時、もうこの子は身話そうかなという気持ちになってしまっていた。鉢を変えたところで、いっこうに萎れたままであり、少し回復したと思いきや、斜め斜めへと垂れ下がるばかり。これが正常な歯の開き方をするとは考えられなかったのだけれども、多少の手入れと、土の盛り方、土そのものを固めつつ水を多めに与えるなどということを繰り返していたら、しおれる前よりよっぽど立派になった。ここまでくると、見捨てようとしていた過去の自分が、とんでもない悪党のような気持ちになってしまった。

何かを見捨てるという行為は、罪悪感を伴いつつも、やって仕舞えばその苦しみから解放されるのも早く、その痛みなどすぐに忘れてしまう。でも、倒れかかった何かに対して、少しの哀れみと優しさを分け与えることで、その対象だけではなく、自分に喜びと共に感激を与えてくれることもある。例えるなら、ほとんど眠らずに仕事をし、ふらふらになりながら授業をしていても、そんなことはお構いなく授業をフルパワーで妨害するような奴もいれば、フラフラになっていることを理解しつつ、それとは別の形で、こちらに「成長」という結果を見せてくれる人もいた。

自分を犠牲にするようなギブというのは、絶対に避けなければならないし、そのようなことをしたくなくなったので、今では人付き合いというのを、一切拒絶するようになった。だから、孤独という代償を伴いつつも、今の自分を基準にし、過去の自分を見直すチャンスというのを得られている。そして、これから創造していく未来の自分像というのが、今の自分にはまだ描けない「理想像」として成長してくれることを望んでいる。

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