思考力

枠外にあった額縁

深夜の動画作りに没頭し、それだけなら良いのだけれども、強い睡眠障害に苦しんでいる。もちろん、正確な体内時計など、私の体内で形成されて刻むわけもなく、目覚めは最悪。しかも、目がさめた数十秒後に、過去のトラウマがフラッシュバックすれば、もはやその日は、一日中気分が下がる。漏れなく、今日もそんな感じの1日であった。このブログは、夜に書いているのだが、そこには特に深い理由もなく、なんとなく夜のドライブから帰宅して、実りあることでもしたいという心の欲求を満たすべく、本能がそうさせているのかもしれない。

自宅から一番近い海岸まで、30分程度。東京にいた時は、2時間以上かかっていたし、高速道路を使用するという大きなハードルがあったから、こんなに何度も気晴らしにドライブに行けるというのは、とても恵まれている。最近では、海に行くことで心を癒すことが日課にもなってきており、やはり海を見ながら、優雅に波に乗っているサーファーを見ていると、その人たちはとても人生が充実していて、これまた何とも恵まれた日々を送っているのだと感じる。

自分がかつてサーフボード を抱えて海に入っていたとき、特に東京から海に通っていたときには、何となく「行かなくてはいけない」という焦燥感が体を押していた記憶もあるし、実際に身体ごと海の近くに移住したところで、何となく同じような気持ちに駆られていたような気もする。ただ、人間関係でもそうだが、失って初めてその存在の大きさに気付けるというのも事実であり、腰に巻かれたコルセットを感じながら海を眺めていると、当時の自分がどれだけもったいない海との付き合い方をしていたかを痛感する。

何も張り合う必要なんてなかったし、誰かに認められようとする気持ちなんて持たなくてよかった。ただひたすら海を感じることだけに専念していればいい。それは、まるで沸いては消えそうで、実は自分で意識的に連続する雑念の震源地が自分だったから消しようがないこと。また、その心の乱れを癒すかのような「瞑想」を続けるのと同じくらい大切なことだと気づく。これは、感覚的な問題であるから、なかなか文字にすることは難しいし、これを文字として表現できるのであれば、その人は大変文才に恵まれた人だ。とても、私には表現できない難問というか、その考えそのものが空虚というか。やはり、自分で文字を連ねながら、自分が伝えようとしていることが理解できなくなるような、若い頃の手記を描き続けていた頃の自分の文体になってしまっていることにだけは気づく。

ただ、体感し、視覚的に捉えられた現象を言葉に知ることはできそうで、今日は月明かりてる空をながめ、波の音と夜の潮風を感じることができた。このような贅沢は、日帰りの波乗り生活では決して味わえない。そして、そこに初めて視ることができた画像があったことも確かだった。雲を突き抜けて照らす月光が、その部分だけ明るいことに気づく。それは当然と言えば当然。月が自発的に輝いているのだから。ただ、その下にある海面が、ぼんやりと輝いている。これは、その時の光景をシェアできる人がいるのであれば、その絵に対して話をできるのだが、やはりこの画像を文字にすることがとても難しい。文字で伝えるには限界があり、少なくとも私の語彙力では到底表現できない力があった。

考えてみれば当然だ。水は光を反射する。ただ、月を見ることだけに集中してしまえば、その月明かりが海に反射していることに気づかなくなる。これは明らかに自分の視野が狭くなっていたり、意識が目立つもののみに奪われていたということだ。それはそれで素晴らしいし、そこから得られる感動もあるのだろう。私はそのような一点の現象を感じ取りながら多くの感動を手に入れたことも事実だ。ただ、波に乗るということだけに囚われていた自分が、波を見るだけになった途端、その月明かりが海面を照らし、異様な力を放っていたことに気づく。そして、そこに言い知れぬパワーを感じる。やはり何らかの制約を加えられたことによって、対象を見る目が変化したことがわかり、むしろ、波に乗るという行為そのものが、自分に対してのリミッターだったのかもしれないとも思えた。

自分の腰がもはや取り返しのつかない状態になり、動きに制限が出てしまった。ただ、それは動的な制限であり、思考や思想の枠組みには関係がないとも言えるし、実は動的な制限を加えられたことそのものが、描くべきキャンバスの額縁を定めてくれたのかもしれない。そこに少し新しい気持ちが芽生えたことは、自分でも嬉しいし、少し驚いている。この気持ちはぜひとも大切にしたい。何となく描き始めた今回のブログ。エンジンを切って、部屋に入り、パソコンの電源を入れる。時間は夜。ノンカフェインのアーブティーを飲みながら。ある意味では、いつものシチュエーションとは真逆の状態。今日の景色でいえば、実は水面に写る月光の方に、神秘が隠れているのかもしれないという興味が湧いたことと同じ現象。リミッターをかけられたことそのものが、制限からの解放になったのかもしれない。それが、確信になるような生き方にしていきたい。

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