思考力

時間の助け舟

昨年の自転車事故の入院以降が「静」だとすると、年末年始は「動」であった。とにかく、精神的にも肉体的にも疲労困憊で、昨日は、なす術も無くなった今回の「動」の騒動で、今後は全く動けなくなったことが確定してしまった昨晩は、とろけるように眠ってしまった。本来、渋谷で診察を受けている頃だが、こんなにも精神的にズタズタで、今後の見通しもつかなくなった状態で繁華街へ行こうとは思えず、思いっきり眠らせてもらった。もっともっと眠りたいところだったが、アパートの目の前で、大掛かりな道路を掘り返す工事が行われており、その爆音で起きざるを得なくなってしまった。こちらもツイていない。

何が「動」なのかを詳しく書いていては、この記事自体が文庫本一冊程度の長さになってしまうので避けるが、やはり自分の中に「どうにかなる」という甘ったれた心がある事は確かで、この歳になっても、自分を自制できなかったり無計画な考えが陽炎のように付いてきたりすることも確かだ。自分が独り身であることに安心する。仮に、誰かをパートナーとして生きているのならば、その人を不幸のどん底に落としてしまうか、悪い人ならば養分を一滴残らず吸い尽くされてしまうであろう。

ところで、今日もいい天気だ。元旦から抜けるような青空が続いている。目の前でガリガリと音を立てて工事をしている人たちも、仕事をやりやすい天候であろう。私も、窓を全開にして、結構肌寒いながらもダウンジャケットを着て、熱々のコーヒーをすすりながら記事を組み立てている。これは、自分にとってとても幸せなことだ。派手な暮らしよりも、ずっと幸せを感じられるときなのかもしれない。仮に、フルタイムで会社員の仕事をしていたのであれば、全く感じられない幸せである。そう考えると、「動」の勢いを経て、何もできなくなったところで、幸せというのは十分味わうことができる。

ドン詰まりの曲面を、人生で何度か経験している。直近で言えば、自転車の事故。下手をすると、排泄や食事すら介助が必要になる可能性があると伝えられ、その先を封じられた絶望を感じたが、今では問題なく手足を動かせるし、クリアに物事を考えることができる。時間という流れは、心身の傷を癒し、それをもう一度再生させる力を持っている。「時間」に意思があるとして、自分が万物に助けを与えていることを知ったとしても、時間はそれを気にもしていないだろう。時間というのは、果てしなく「GIVER」なのだ。

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