思考力

時の流れの終着点とは

平均とか標準とかを考えたときに、やはりそこには自分の先入観が入ってしまうことが多い。もちろん、偏差値や体重や身長などの数値化されるものであれば、客観的に平均値という値を見出すことができるのかもしれない。ただ、そんな平均値であれ、自分の目指すゴールにたどり着くためには、自分がどこの位置にいるのかを考えるわけだから、個々のモノサシが必要となってくるわけで、ある意味、先入観というものが加わってくる。

そのような数値化された物事の見方をするのであれば、平均値に近い人が正常で、平均値より大幅に前後してしまう人が特異であると考えるのは、いささか問題があるのではないだろうか。ただ、日本では、そのような「平均値思考」が強くあり、出る杭は打たれるとか、長いものに巻かれろという意識が強いので、なかなか本当の実力を出したいとは思えない場面だってある。この平均値思考を乗り超えることで、自分の心が豊かになるのだとしたら、やはり自分のメンタリティーの強い心構えができるようになるのであり、その特異性こそが、その人の魅力となって、周囲にアピールできるようになる。

また、その平均値そのものが無価値になってくることだってあり、今まで必要であった畑そのものが無価値に変化してしまうことさえある。かなり具体的な例になるが、私が小学生の頃などは、「クロンボ大賞」と言って、全校舎で一番日焼けをした生徒を舞台に上げて競い合うというイベントさえあった。紫外線が皮膚に有害だということが明るみに出る前の話だ。これは完全に違う土俵で使用していた間違ったモノサシである。また、「ちびくろさんぼ」という学芸会の出し物も、タイトルが差別的であるとして、バッシングを受けることにもなった。

では、洋服ではどうだろうか。私が若い頃は、ボロボロの洋服に高い価値がついた。ビンテージのジーンズや、シルバーネックレスなどの価格が高騰。大学生になった途端に、車の免許を取って街を滑走するのは普通であった。今では、洋服は量販店の服に、自動車離れという状態。これは、やはり時代の移り変わりから派生した価値観の変化である。

このように、自分の生活する範囲の尺度や考え方が変化すれば、平均値そのものの偏りが変わってくるのも当然であり、そこから新しい発想が生まれるのであれば、絶えず変化する価値観に乗っかっていくのも悪くない。そのような動きこそ、時代の波に乗るという考え方に通ずるものがあるとも言えるのではないか。

自動運転が当たり前になり、注文したものがドローンで30分もしないうちに運ばれてくる。VRゴーグルがコンタクトレンズになり、ますますシンギュラリティーの時代が近づいてくる。やがて、人間の価値観がなくなり、機会に主導権を握られた世界が完成していく勢いだ。そうなれば、新しい物事の尺度というものは、急加速する時代の時間とともに、動かざる安定した固定化された不動の価値観につながることは間違いないと言える。時代に順応するということは、機会に白旗を上げなければならないことに等しくなるのであれば、この記事の冒頭の特異性のある人物のマイノリティーの考え方を、積極的に採り入れなければならないはずである。

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