思考力

既製品ではないメジャー

私の住む街は、特に水害が多く、以前、私が台風直撃の際にわざわざ避難したら、その避難所で車が水没するという、何とも悲劇としか言いようのない状態になってしまったことがあった。避難しなければ、全くもって無傷の状態だったのだから、とても皮肉な結末を掴んでしまったというわけだ。昨日、大型の台風が、モロに関東に直撃し、私の住む街は、特に大きな水害が発生してしまった。私の近所では、それほど浸水した場所もなかったので、前回同様の不幸を掴みにいくようなことはせず、自宅警備員らしく、自宅待機していた。

Twitterで、私の街をキーワードに検索をかけると、市全体が、とんでもない大惨事に見舞われている。川が氾濫しているし、浸水している場所も多数ある。先日車を納車した店の前の道も、どっぷりと浸水している状態。納車が遅れていたら、一体どうなってしまったのだろうか。そして、多くの車屋や、展示品が店の前に並んでいるような店は、果たしてどのような危機の脱出を図ったのだろうか。かなり深刻なダメージ。眠れない時に向かうジュースの自販機に向かいながら、大きな水たまりができた場所を発見し、復旧にもずいぶんと時間がかかるのだろうということが自分にも分かった。

やはり、自分も数年前の台風の悲劇を経験しているので、自然災害の恐ろしさや、突発的に起こる不可避な状況になす術がなくなる人間の無力感というのも、この時は強く感じるものだ。ここまで書いておきながら、実際に昨日の困ったことは水害ではなく、自分の過去のトラウマに火がついてしまっていて、自分でももはや抑制することができなくなっているということだ。もし今、被害を受けた市民に自分のトラウマのことを相談したところで、何を悠長な事を言っているのだという怪訝そうな顔をされてしまうのもオチだろうし、それでいて自分の気持ちを誰かに告白したいという気持ちに駆られていることも確かなのだ。私はわがままなのだろうか。

よく言われているのが、自分の悩みを打ち明けた時に、途上国の難民の飢えや、戦時中の被災した日本国民の苦しさなどを考えれば、自分の苦しみなど小さいものだと諭されることもあるのだが、その発想というのは、なかなか自分の中では受け入れられないというか、何やら考えるベクトルそのものが釣り合っていないと思う。ある人が抱えている悩みというのは、あくまでも当事者の事情や性格、環境に左右されるものなのだから、一概に何かと比較して悩みの「強弱」のような事を決定できることはないだろうし、そもそもの場合、悩みや苦しみというのを、同じ物差しで図ることという発想は、ナンセンスなのではないだろうか。

ある人に苦しさを打ち明け、何らかのアドバイスを期待していたときに、自分でも思ってもみなかった素晴らしい助言が差し伸べられることもあるし、逆に、傷口にさらなる塩を塗りたくられるような感じで突き返されてしまうことだってある。それを考えたときに、自分の心が貝殻のように扉を閉じてしまうのであれば、そこに光が差し込むことは決してない。それならば、自分の悩みが哲学的なものでない限り、どのような解決の道筋を得られるのか、そしてその解決の方法にメスを入れられる角度を教授してくれるような誰かに出会えるかは、とても重要なことであるはずだ。どこまで規制の物差しを排除して真摯に物事を考えられるか。そして、何かを打ち明けられたときに、いかに規制の固定概念を振り解けるかということで、各々のケースにふさわしい解決の道というのが見つかるのではないかと思っている。

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