思考力

支えきる

腰椎分離症。私の謎の腰の痛みに診断された傷病だ。ギックリ腰だと自己診断していたが、まさかレントゲンで肉眼で確認できるような骨のズレを見つけられるような症状だったとは思わなかった。これは一般的に、若い頃、それこそ小学生あたりから既に症状が出ていた可能性があり、それが進行して成長しきったあたりに発症し、腰椎が分離するという結末に落ち着くそうだ。落ち着くというのは症状が出るということで、骨のズレや痛みが落ち着くわけではない。また、この症状に関しては、保存療法か手術しかないという。これまた、ある意味、一生お付き合いの病気外傷が増えてしまった。

瞑想用の椅子が悪かったといえば悪かったと思うのだが、さらにあぐらをかくという姿勢そのものが、腰には絶対に避けなければならない姿勢だったらしく、何のために精神統一をしていたのか分からない。とりあえず、何が原因かと言われれば、突発的なことではなく、慢性的な重圧が絶えず腰を圧迫してできた症状なのだから、一概に最近の行動を責めるというわけにもいかないだろう。ただ、やはり自分にとって腰という箇所は、いや、人類全体にとって、いや、骨と関節を持つ生き物全体にとって、腰というのは「要」であり、そこを常に意識しなければならないというのは、とてもつらいことだ。

一番つらいといえば、私はスケボーをすることが唯一の楽しみで、玄関にあるスケボーを選別して、その板の特性を最大限に引き出すことが生きがいだ。特に、この技術は、一朝一夕の努力では身につくことはなく、それこそ長年の積み重ねで成し得る「賜物」である。鶏が先か卵が先かという表現が正しいのか分からないが、とりあえず腰を酷使してきた要因として、スケボーはワースト5には確実に食い込む。それだから、今後このスポーツとも距離を置いて行かなければならないと考えると悲しいが、どこかで納得しなければならないのだと思う。玄関に並んでいる3台のスケボー を見ると、本当に切ない気持ちになってしまう。

この腰で、仮にサーフィンをしたところで、下手に身体をひねって激痛が走ったとしたら、どんなに穏やかな海であっても、絶対に岸までたどり着けない。そもそも昨日の診察でベッドに横たわれなかったし、レントゲンを撮るときの体勢だって、まともにキープできなかったほどだ。これまたもはや遠のいたとはいえ、サーフィンという私の生きがいを失ってしまったことを認めざるを得ないのかも知れない。今まで積み上げてきたなんとも多くの財産というか、資産を失ってしまったような気がする。やはり、この喪失感はなかなか埋められないことだろう。

一種の疲労骨折とも言われる「腰椎分離症」だが、今までの努力を労ってあげるときなのかも知れない。知らず知らずのうちに負担をかけてしまったことも、申し訳なく思う。まるで、他界した母のようだ。何一つ文句や不平を言わず、自分のことを犠牲にしてまで私を守ってくれた。そして、母なき今、自分の喪失感や感謝を伝えきれなかったことへの悔恨もある。ただ、時間が癒してくれていることは確かなことだ。そう考えれば、今までずっと私の身体を支え、何不自由なく歩けるように頑張ってくれた腰に感謝しよう。それに気づけたことに安堵するべきなのだと思う。自分ありきのの考え方もよくはない。やはり感謝することで、自分自身も癒されていくのだろうと思う。

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