思考力

拝む痕を思い出す

昨晩、眠気はあるのだけれど寝落ちできないという苦しい状態が続き、半覚醒のまま長い時間が過ぎ、7時前に目が醒めた。そこからの二度寝を楽しもうとしても、やはり夢の世界へとカンタンに潜れるわけではなく、やはり布団を抱きしめながら半覚醒の状態のままでいた。東京に一泊してから様々なことを考え、やはり自分が腰椎分離症という足枷がついたまま、一生続く双極性障害も背負わなければならないという事実に気が重くなる。肉体的な痛みが生活の一部となり、精神的な苦しみを抱きながら新しい時間を迎え入れなければならない。これで明るい時間というのは巡ってくるのだろうか。

一泊した東京のホテルに到着する前に、故郷である街並みを散策し、ホテルの教養の風呂場の天井から蜘蛛が落ちて来た。そして、部屋にも大きな蜘蛛がいて、それを風水的なラッキーと捉えることにした。ただ、それをただの偶然とだけで考えるのではなく、神秘的な力が働いたと考えることもできる。レジから渡されたレシートに”333”が並んでいたり、宿泊先のホテルが生まれ故郷の場所しか予約できなかったこと。そしてそのホテルに蜘蛛が出現したということ。ユングのシンクロニシティ理論と調和していると思えば、スピリチュアルなパワーが私に何かを伝えようとしている前兆なのではないかという方程式も成り立つ。これが、新たな「始まり」を意味しているのであれば、私の迎えるべき時間は整った道のりになるはずだ。

揺れる帰りの電車の中で、一泊した東京での出来事を考えてみる。記憶は次々と過去の記憶と連鎖し、私が小学生になりたてのことの記憶にだって繋がってくる。そう考えた場合、やはり時系列というのは間違いなく直線で結ばれているわけであり、それが思いもよらぬ刺激で理解できることだってあるようだ。その不足のハプニングこそがシンクロニシティというものなのかもしれない。断捨離や掃除が精神を整えたり、風水というのが学問として成り立っている。それを実践し続けたことで、スピリチュアルな現象に結び付いたのであるから、じわじわと風水効果が現れているのだとも言える。

小学生の時、サッカーの試合の前に必ずお参りに行った神社を通り、参拝をした。中学生の頃、イジメに苦しんでそんなイジメが早く終わることや、いじめっ子と同じクラスにならないように心の底から祈り続けた。それは、未知なる未来に願を掛けたわけであり、その追憶が中年になった「今」結ばれたことに気づく。昨日、何か願をかけたわけではない。なんとなく「ありがとうございました」と呟いた。振り返り、時が流れ、そして過去のことを追憶して感謝する。時が経てば経つだけ、過去の期待や希望がどのような結末につながったのかという事が理解できる。すると、人間は感謝するということを憶えるようだ。そしてその感謝の中に「新しさ」を感じられたのであれば、時間の整い方は確実に綺麗な線を描いたいるということを実感できるのである。

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