思考力

扉の輪郭

緑色の額縁の壁掛け時計を飾って、結構経つのだけれども、視線を上へ向けて時計を見るということはなく、結局は手元にあるスマホや、iPad、などで時間を確認する。そして、そもそも、もはやアナログ時計を見ていたとしても、いまいち時間の把握が難しくなっていて、時計の針の見方ひとつとっても、時代がデジタル化しているかのようだ。昨晩から、今朝にかけての就寝時間は、床についてから12時間以上経過していて、眠気も残っている。睡眠をとるという、人間には欠かせない生理的欲求を、満足に満たすために、半日以上費やしているのだから、自分の人生の効率が、酷く悪いことにも気付いてしまう。

天気アプリを見ても、今日は一日中降水確率は、100%で、これから先一週間は、最高気温が10℃を下回ることはないようだ。冬らしい冬の寒波に、猛烈に苦しみ、心の奥底から冷え切ってしまうような天候や気温がない冬だった。これが、たまたまなのか、地球規模で起こっている「温暖化」が原因なのかはわからないけれども、時間はとにかく流れていて、その時間に抗うことなく、自分を含めた万物の生き物というのは、劣化していくのである。ジリジリ刻みに削られていく自分の生命が、睡眠によって大きく進行を左右されてしまうというのは、とても悲しいことではある。でも、それが双極性障害からくる副次的産物なのであれば、それを素直に受け止める以外ない。

今までの人生で、骨折したことは2桁は超えるだろうし、入院したことも同じくらいの回数だ。これから、どんな肉体的な劣化によって、この悲惨な記録を伸ばしていくのだろう。そして、最近になって、異常に強くなって襲いかかってくるトラウマのフラッシュバックと、精神的不調。これからの人生で、嫌というほど経験することになるのだろうと思う。これは、他者とのつながりがないことから生じる悪化なのだと思っている。仮に、誰かと繋がっていられるのであれば、その苦しみの微々たる部分を話し、それを軽微にシェアできれば、今のような心をズンと押し付けてくるような苦しみはないのだと思う。とはいえ、自分のことを理解し、それでいて、自分のことを本当に知ってくれる他者など、この世には存在しないと思えば、もはや大きく落胆する気持ちも無くなってくる。いくらつながりがないからと言って、自分の弱音をぶちまけようとする姿勢は、排除して謹んで生きていかなければならないのだと思う。

自分の人生に責任を持つのは、他ならぬ自分である。それなのに、その自分にすら自信を持てなくなってしまったのであれば、自分は何にすがって生きていけば良いのだろうか。生まれてからの自分の歴史を全て知っている、父も母も他界してしまった。これは、最近になって、強く感じることなのだが、やはり腰を据えてゆっくりと話をする時間が欲しかった。とにかく、自分の家ではゴミ屋敷の中、罵声が飛び交い、暴力が横行していた。そんなことを繰り返し、自分は心を閉ざしながら、双極性障害を発症してしまった。先天的な障害で、いつかは発症するのか、それとも発育期の段階の何か強いストレスで発症する障害なのかは、今の研究データでは出ていない。ただ、自分の人生を回顧したときに、あれだけの小競り合いの時間を、ゆっくりとした時間で過ごせたのであれば、どれほど幸せだったのだろうかと思ってしまう。

今、こうやって、田舎で一人暮らしをし、誰にも邪魔されずに過ごしていると、ふと、このような時間の中にも虚しさや苦しみも感じるし、この6年間の千葉での生活の中で受けた精神的トラウマであっても、心を煮えたぎらせるようなアクシデントだってあった。やはり、幸せになったり、心を平穏に保つことができることにも、才能とか、センスが必要なのだろうか。それならば、そのような点で、自分の人生のこれからの平穏というのは、とても不安定ともいえる。どこかに、自分の極楽浄土があるのだろうか。それを求めて、多くの苦しみを経てきた人というのは、「神」を崇拝して行ったのかもしれない。そこに、宗教という分野が生まれたのであれば、自分は少しその扉の影の輪郭くらいは、見えてきたのだとも言えるのかもしれない、

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