思考力

砂を集める姿勢

 

大体「2000文字」程度。多いときには「5000文字」を超えるのが、私のブログ記事の長さ。読むのも一苦労だし、視覚的にも見栄えが良いように画像を挿入してはいるものの、書く内容が抽象的であったり、自分の体験談が多くなったりで、多くの人に読んでもらえているとは思えない。そもそも、どれほどのアクセスがあるのかを分析するツールの使い方を理解していない。インターネットの世界で目に見えぬ仕組みを構築するのだから、しっかりと知識を身につけねばと思うのだが、やはり億劫になってしまっている。これは、大いに反省せねばなるまい。

ただ最近では、ブログを書くことそのものが習慣化しているので、魅せるための文章を書いているという自覚はない。もちろん、惰性で書いているというわけでもない。そして、さらに習慣化したことといえば、自分のブログを読み上げた動画をアップしていると、自分の考えそのもののアウトプットしていることとなり、自分の思考回路が明晰な状態になる。変換ミスの多さには気をつけねばならないという発見もある。

 

誰も興味がない自分のブログであっても、自分が声を出して読み、その時に書きながら思い描いていたことを再考するということは、なかなか面白い。自分という「他者」に向かって書いている感覚だ。そんな自分のブログを音声を、入院している母に向けてレコーダーに録音して渡したのだが、内容が難しすぎて理解不能だったと言う。確かに、読み返してみると理解が難しい箇所もあり、辻褄があっていないわけではないのだが、かなり大回りな表現になっていることも多く、やはり抽象的で伝わりにくい記事もある。

誰か一人に向かって書くイメージを持つ。これは、なかなか効果的で、私の場合は「思考力」を身につけようとし、そのきっかけを探している人を心の中に思い浮かべて書くようにしている。だから、結論部分では「必ず」、これからプラスの方向で学習意欲を高められるような方向で締めるように努め、決して「雑記ブログ」のような内容にはしていない。超有名人でもない限り、自分の私生活のことを曝け出したところで、読んだ人は苦痛でしかないだろうと思っている。

AIによって振り分けられているということも大きな要因ではあるにせよ、とにかく最近の「出来事」は同じような報道通知ばかり。1週間程度は、関わらなくても良い情報に振り回される。ただ、どのチャンネルの報道であれ、読者を惹きつけるための工夫が大いに仕組まれており、タイトルやサムネイルを見ただけでクリックしたくなる。まさに「よいお客さん」だ。向こうも宣伝のプロ故に、引っ掛かってしまうのは仕方ないとはいえ、どの情報も似たり寄ったりの情報を、単に違う媒体が発信しているだけにすぎず、それをマジマジと読んでいれば、瞬く間に時間など過ぎてしまう。それが「あちら側」の作戦なのだから、やっぱり仕方ない。

自分の情報を注目させることばかりに目がいってしまい、利潤や生産性を最優先にしてしまう。万人受けする情報に価値はないことは確かだが、ある問題に対して、自分たちが真摯に問題解決をしていることを「打算的」にアピールすることが、果たして正しいと言えるのだろうか。中身は、ほとんど変わらないのに、表紙だけを変えたような情報に、全く価値はない。開いてみれば他と変わらない情報に時間を費やすという愚行は、吸血コウモリのように時間を奪うだけのメディアに踊らされて、ただただ「チャップリン」が時計の歯車の上でユラユラと虚な顔で歩いているだけに過ぎない。

たとえ届かない孤島からの「投瓶通信」のような文章を書き続けていたとしても、きっと自分の考えや思想に届くと信じることを目的として筆を走らせていく。筆を走らせていくときの姿勢は、砂をすくい取って手の中に包むときの姿勢と同じ。そこには、無数の言葉が詰まっていて、自分を表現するための組み合わせには、制限が無いことに気づく。そうすると、“PV”を稼ぐことに躍起になっている人たちの情報に「あはは」と笑いがこみ上げてくる。自分の存在を知らしめるために、二番煎じ、三番煎じの薄っぺらい文字を並べているのであれば、しっかりと自分独自の考えを滲み出させるような表現を磨くべきだ。

積極的に自分と相手とを関わらせるためには、自分が考え、積み上げ続けてきた経験を遺し、そこに共感してくれる人に自分の考えを知ってもらえるような「心の余裕」が必要だと思っている。

 

-思考力