思考力

ドリアの記憶

その日にやった事を、もうすでに夕方には思い出せない。こうなってくると、一体私は、念のために生きているのかとふ過ぎに思ってしまうこともある。いろいろな受験生の質問を受け、大急ぎで家に帰ってくる、次の日の早朝には身支度を整えたら、スリリングな1日の始まりだ。これほど忙しいと「今」という概念そのものがなくなっていた、では、現在はどうだろうか。やはり、「今」を感じられないのだから、結局のところ、多忙な頃と同じように、1日の感じ方は異なっておりつつ、その完遂した内容に関しては、全く違う成果になってしまう、今日やった事を思い出せないくらいなのであれば、大方のところ。自分の積み上げたことなどというの「無し」いに等しいこととなってしまうのだ。

こんな無重力のようなフアフアした状態の中であっても、自分は頭頂部が薄くなり、下腹部は醜く句垂れ下がってしまっている。つまり、どんな人生を送ろうとも、時間だけは誰にとっても平等に過ぎ去っていくのであり、それを完全に止められたとしても、やはりシンギュラリティーとして、体の半分くらいが機械になっているというような、どちらがご主人様なのか分からなくなっているであろう。

申し込みをしようと思っていた物件が、わずかの差で先取りされてしまった。物件であれ、古着であれ、はたまた人とので青であれ、そこにはで青が生じるわけだ。あの人に出会わなければよかったという気持ちになることもあるが、自分だって誰かのことをひどく傷つけていることだって間違いなくある。そのような、やられる側とやる側のコミュニティーというのは、リーダーが誰もいないことに等しく、塊全体がどこに向かうのかさえ分からなくなってしまうことになる。そんな状態では、そのコミュニティーの成し遂げたことなどは、そこにいるメンバーそのものが、自分たちが何をやってきたのかが分からなくなってしまうものである。

思い出作りに邁進せよというくだらない事を言いたいわけではない。「今」にたどり着けるだけの充実感を大切にしなければならないのだ。現在、朝4時半。前の晩にコンビニで買って、「今」食べたシーフードドリア。目がくるくるしているようば時に、こんな高熱のものを食べるべきではない。しかも、口をモグモグと動かしながら食べていた。床には、散乱したお菓子とドリアのドロドロしたチーズ。今日は、大丈夫かもしれない。起き抜けにこれだけのハプニングがあったのだから。

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