思考力

テレパシールート

もはや、下手なサーフショップのスケボーコーナーよりも酷い有様。今も、机の横には、未完成のスケボー三台が転がっている。そんなわけで、いろいろカスタムをして海岸にて、本格的に乗ってみるのだけれど、どれもとんでもない個性が爆発する、まさに「ジャズ」の演奏の楽器が、それぞれ自由気ままな音を奏でるかのようなスピード感を出してくれる。これまた、今日も値段交渉の末、安くなった新しい相棒をゲットし、新しい相棒とはいえ、ボロボロのパーツ取りだけに使う板だが、こいつのパーツを、どのように取り出して、どの機種に組み込もうかということばかり考えている。

風呂に入る前に、自分の部屋の中で、試行錯誤してスケボーをいじり、床はビスとナットとパーツが転がっていて、もはやスマホの指紋認証など不可能な状態のボロボロの親指。なおかつ、風呂に入っていても、どうやったら今日は転ばずに持ち堪えられたのだろうかということばかりに頭が入ってしまい、あれよあれよという間に、湯船に浸かる時間が経過していた。ここまで夢中になれることがあると、以前のような強烈なフラッシュバックもなくなる。仮に、過去の腹が煮え繰り返るようなトラウマを思い浮かべながら、一瞬でコンクリートに打ちつけられるかもしれないという恐怖感を、同時には抱けない。こう考えると、人間というのは、案外、単純な生き物なのかもしれない。そこまで思えるのならば、やはり自分がハマっているスケボーのカスタムというのは、自分の人生にとって、とても有益な運気をもたらせてくれている。

明日から明後日にかけて、東京に宿泊し、精神科の受診をする。ここのところ、体重増加に伴う不安から、自炊を心がけていて、今日もスーパーのお菓子コーナーでは、断腸の思いで、通り過ぎるという選択肢を取ることができた。これは、自分を大いに褒めてあげたいところだ。きちんと体も反応してくれているようで、一のくらいの数字が一つ減った体重計の数値に、束の間の喜びを得られた。これが、どんどん継続して、ここ一年履けていなかったジーパンを、再度吐けるようになりたいものだ。風水的にも、断捨離の基準としても、一年以上着なかったり、使用しなかったモノは、処分するというルールがあるけれども、このジーパンだけはなんとしてでも断捨離の手前で救い上げてあげたい。

とはいえ、洋服を買わなくなった。いつも同じ格好ばかりしている。それで、誰かに「ダサい」と言われるのかもしれないけれど、誰とも付き合いがないので、そんな戯言を言ってくる人も居ない。それに、スケボーでは、柔道の背負い投げを喰らったかのような体勢で転ぶことが多く、仮に、ビンテージ簿ジーパンなどを履いて破れたら、泣くに泣けない状態にもなってしまう。暖冬ということも手伝っているが、電熱インナーダウンに、フリースジャケットを着ていれば、そのまま車でどこへでも行ける。これこそが、外房ライフの醍醐味でもある。

家計簿をつけるようになった。日々の収支の計算というよりも、とにかくその日に何回レシートをもらったのかばかりを気にしている。ちまちま買い物をしていれば、容赦無く財布には不要レシートが溜まっていく。だから、買い物も、とことん買わない方向で生活している。今日も、財布には2枚しかレシートがなく、それを家計簿アプリのカメラでカシャカシャと撮って、集計は終わりとなった。その中に、スケボーのレシートもあったのだから、実質的には生活費として支払った回数は、一回だけということになる。

人は、何かを成さねばならないと思い込んでいる。だから、石のあるところに道は開けるというような、嫌な言い方をすると、「根性論」的なワードで溢れかえってしまう。かくゆう、自分も塾の講師だった頃は、受験生を激励するメッセージを熱く語っていたのだが、人間というのは、生きているだけで「完成」しているという考え方もできる。努力するなというわけではないけれども、必要以上に目標地点を高くして、それを根性論で突き進もうというのは、なかなか賢い方法であるとは言えない。それならばどうしていくべきなのか。今の私の考えで言えば、胸がざわつく方向に、興味関心のアンテナを張っていけば良いのではないかということになる。

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