思考力

明日食おうはサバ野郎

 

しつこさとは何だろう。これは、言い方を換えれば、素晴らしいプラスの表現にもなる。「初志貫徹」なんて言葉は、まさにそれに当てはまるわけで、粘り強く自分の描いた目標を達成するために不可欠な要素は、まさに「しつこさ」である。例えば、どんな才能であれ、人生のどこかで、その分野に出会わなければ、それでその才能が開花することもないだろうし、逆に、多少の才能が足りていなくても、努力と継続力で自分の描いた目標を達成することはできる。

当時受験生だった頃の私も含め、受験生を指導しているときに、致命的な悪癖を続けてしまっていることに苦付いていない当事者が、あまりにも多い。秋風が吹き始めると、受験生の心は、一気にセンチメンタルな心のどこかに風穴が空いてしまったかの如く、昔風に言えば「ブルー」な状態で、気持ちが上の空になってしまう人が多い。ただ、そのように自分が焦っていることに気づき、何とかしたいと思って、相談に来るタイプの生徒なら救いはある。しかしながら、感傷的になるどころか、「時間貧乏」になる受験生が余りにも多いと言いたいのだ。

このような人たちは、大学受験では遠慮なくリピーターとなって、浪人クラスに座っているのだが、こと高校受験になると、第一志望に受からなかったことを、こちらのせいにして「バカ野郎!」といった態度で去っていく。さんざん手を差し伸べていたのに、それを振り解いて後回し後回し、後手後手に廻り、下らぬプライドばかりが邪魔していることにさえ気づかない。後でやろうは馬鹿野郎。その素晴らしいワンフレーズを贈る以外なくなってしまう。そのような十代の貴重な時間に、自分のことを棚に上げるような態度でいれば、それは、致命的な悪癖となって自分について回ることになる。心の底の井戸の穴から出てこようとする「貞子」の怨霊のような負の感情には、若いうちにフタをすべきである。

ただ、受験生を教える立場であったときに、自分の価値観を徹底的に教え込むことは、不可能であった。仮に、マンツーマンであれ、誰かを完全に意のままにできたとしたのであれば、それは、戦時中の日本の「天皇制」のような私のテリトリーを拡大させてしまい、自分の中にいるはずの自分を、見失わせてしまったことになりかねない。自我が芽生える過渡期に出会う人の影響というのは、その後の人生に、大きな影響を与えるものだ。だからこそ、自分自身の言動を、常にない反するようにしている。そうでなければ、いつの間にか、自分が「偏屈ジジイ」になっていることも理解できない存在となりうる。ガンコラーメン屋ですら、このご時世で苦労しているのだから、私などの身分は、常に、いや職人気質の人以外の誰もが皆、自分の考え方を客観的に捉え直さなければならない。

とはいえ、年齢という歳月が流れていると、やはり自分の中に偏ったプライドも芽生えてくることが見受けられる。YouTubeで見るとよくわかるのだが、予備校の英語の若手講師の授業で、本人がガチガチに緊張していることがわかる。これは、一般の人には分からないと思うのだが、どこかで「ウケ」を取るために、「オチ」を作ろうと必死なのだ。また、自分の教養を少しだけ見せたくとも、そこに矛盾が生じて口籠ってしまっている。撮影の後、本人は相当落ち込んでいるはずだ。それが、もう見えてしまう。だから、若手の講師の授業の研修というのは、極力断ってきたし、仮に命じられても、その講師が初見の問題を完全クリア出来なければ全て断っていた。あくまでも、授業の改善点というのは、誰からも指摘されずとも、毎回毎回、自分の中で改善点を見つけ、独力で、それを克服していかなければならない。だから、見るだけ無駄だと思っている。

ウィルス性肺炎という「コロナ」の一歩手前で脱出したブラック企業。今振り返れば、それが招く危険と悲劇が怖すぎた。黒い縦社会の中で、自らも気づかぬうちに、若手講師を厳しく指導していたのだ。これでは、知らぬ間に値上がりし続けているガソリンを、満タンに飲み干して、あるとき会社に着火すると脅されて、身動きが取れなくなっていたはずだ。考えただけでも身震いがする。自分だけは、誰かを力で押さえつけることはしないように気をつけてはいたものの、黒い会社の暗闇の中で行われる指導に、自分の下らぬプライドを、思いっきり押し付けていたのだ。

今日は、釣りに行って、もはやクーラーボックスがサバ一色になるほどの大量。あの竿が思いっきりシナって横へ走っていく力と対峙する臨場感。脳汁が吹き出る。昨日の仕掛けを今日使って、今日知り合いになった人に、釣りの踏み込んだ方法論を具体的に教えてもらう。ここに、人間同士の駆け引きなどない。あるのは、たまたま居合わせた隣の人と、お話をして得た知識だけ。そして、最高の充実感と捕獲した獲物を持って帰宅。旧居の向かいのおばあさんに、お土産として持っていくと、とても喜んでもらえる。昨日は、新居の近所の人に喜んでもらえた。その調子で、今日も新居の近所の人たちに配ろうとしたら、誰もが多少怪訝そうな顔をして、断られてしまった。

自分の勝手な善意での自己満足なお土産に苦しんだのは、他でもない自分。山のような「サバ」を捌きつつ、自分がメルカリで売却してしまった冷蔵庫を思い出した。今は、もう、断捨離している。必要なものは帰ってくるという意識ではいたのだが、もはや多数の「お魚さん」たちの命は蘇らない。部屋の中を魚風味にして、ゲップまでサバのニオイを放出している自分。食べなければならないという責任感と、次回からは、リリースするという勇気を持つと決心して、皮肉にも目の前にある「サバ缶」を睨んでいる。

 

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