思考力

そのパイオニアの真偽

クイッ、クイッと体内時計がずれてきているのか、今日はあえて日付跨ぎで記事を書いてみた。別に、とっとと眠剤を飲んで眠ってしまうことだってできたのだけれども、何やら気持ちが先走りすぎていて、あまり「眠りたくない」ような気がしてしまった。自宅でYouTubeの動画を観ていれば、やはり車の中とは違って、動画の中の動く画像を視覚的に捉えられるので、サムネイルに、サーフィンやスケボーの動画が表示されれば、それをタップしてしまう。すると、早く明日、車をかっ飛ばして海沿いの駐車場で、思いっきり板を蹴り込みたい衝動に駆られるのだ。

そうなれば、朝起きてからとか、帰宅してからとかに、このブログを更新することも焦ったく感じてしまうので、今のうちに記事をアップして、起きたと同時に車のエンジンをかけて海へ辿り着きたいという「想い」が生じる。ここまでくると、二十代前半の頃、早く海に行きたかったり、雨の日にスケボーができなくてウズウズしていた頃と変わっていない自分がいることに、我ながら苦笑してしまう。それに、若い頃から体が硬く、全く柔軟性がないので、怪我が多くて、今でもそのときの後遺症や、体のしなりの無さを痛感する。YouTubeで、ヨガやストレッチの動画とともに体を伸ばせども、全く自分の爪先に手が届かず、まさに対岸に手を差し伸べようとしているようだ。

自分の精神状態を落ち着け、潔く眠りにつけるように始めた就寝前のストレッチだが、なかなか習慣になることはなく、それでいて何やら義務感のような重荷となってしまった。それとは真逆に、スケボーへの気持ちは強く飢えており、自分の体が柔らかければ、もっとシナリの効いたターンを決められるはずだと嘆いてしまう。だからこそ、面倒であっても、年齢的に遅かったとしても、自分の中で改善できる身体的な問題や課題があるのであれば、積極的に改善したくなるものだ。そう考えれば、今夢中になっているスケボーというのは、自分の心身にとって、とても良い効果を発揮していることが分かる。

体を動かしたり、精神状態を整えるだけではない。とにかく行き帰りの中で仕入れる知識。これはYouTubeの「耳学」なしには語れない。愛車のハンドルには、スキップ機能とボリューム調整のスイッチがあり、それを捻っていれば、自分の欲しい情報を、好きなだけ頭にインプットすることができる。もちろん、自分の中にある心のトラウマが暴れ出してしまい、全く内容が頭に入らないこともある。それはとても悔しいことなのだが、それはそれとして離れられない宿命なのだと、自分の傍に置いておく以外ないのだとも考え直している。

昨日、誰と喋っただろうかと思い出してみた。愛車を買った中古車屋のスタッフだけだった。とにかく車の話が好きな人で、正直、こちらが鬱陶しいと思ってしまうほど、マシンガン車トークが止まらないことがある。これは、全く営業の話ではなく、全て、車の本質や、超専門的な話をしている。そして、それを心から嬉しそうに話してくるので、こちらとしても止めるに止められないこともある。そんな人に、次の車の話を相談してしまったので、これまた今の愛車に対して、非常に失礼なことをしてしまった。先日、宴席に乗り上げてしまって、自分のことをアピールするかのような愛車との関係が、破綻の方向へと向かわぬよう気を張っておかねばならない。

もし、今の自分が、誰かにスケボーの「技」の話や、技術的なアドバイスを求められたとしたら、おそらく何も話せないと思う。結局のところ、いたの角度や、体重のかけ方なんて、何度も反復しつつ、それを立て直し、そこに「喜び」を感じられれば「体感」できるものだと思っているからだ。仮に、どうしても教えを求める人がいたとしても、最初は、本当につまらないことからステップバイステップで教えていくことになる。板を派手に動かすためには、徹底的な基礎が不可欠なのだが、それをすっ飛ばして思い通りのラインを描こうとするから、そのイメージが叶わなくて、挫折するケースが多い。

インターネットで知り合い、それでスケボーを教えた人が、初めから終わりまで「上達しなかった」と言い続けて、一回だけで去っていった。少しおかしな人ではあったのだけれども、よくよく考えてみてもらいたいのは、上達するというのは、基盤の上に成り立つものなのだから、「初回」で上達するという論理は成立しないはずだ。そのような考えが理解できていないというか、理解できるだけの知能というか、日本語の能力がなかったのかわからないけれども、酷く腹のたつ人間だった。今、この記事を書きながら思い出した人なのだが、そんな人は、今頃、何をして「上達」しているのだろうか。そこだけは気になる。最初から最後まで上達するものというのは、一体なんなのだろう。おそらく、そんな分野に出会ったのならば、それはその人が天才であるのか、はたまた異次元の超人くらいなものだろうと思う。

もし、自分の中で、基礎基盤ができていない状態で、うまくいかないことがあるのならば、そこには序盤で停滞期のような壁があると思ってもらいたい。そして、その分野で面白さを感じられるくらいの気持ちが芽生えていれば、その後の成長は早い。もし、その停滞期のようなものが、一定期間を堪えても過ぎ去らないのであれば、それはその人にとって、向いていなかったということにもなる。その時は、潔く諦めることも勇気なのである。ただ、そこの見極めばかりは、とても難しい。

自分の中にある可能性というのは、その時の年齢や身体能力、知識、そして「運」にも多分に左右される。その雲の中には、縁であったり、時空間であったり、地理的な要素も含まれてしまうのだけれども、やはり能力を十分に発揮できる分野を探し当てるためには、上達する前の滑走路を楽しめるくらいの気構えは必要だ。そんなことを、この深夜のブログ作成の中で考えている。自分の時間を割いて、せっかく至れり尽くせりの対応で迎えていたのだけれども、教わろうとする者が、全く心構えがなっていないのであれば、そこに教授することはなくなってしまう。それは、私を今苦しめているトラウマにもあるのだけれども、教得てくれる者に対しての敬意や配慮というのは、それを受け取る側は必ず心に抱いていなければならない。それができないのであれば、自我の塊の自己流のやり方で進んでいけばいい。とても皮肉な言い方になってしまうけれども、そんな自己流のやり方で大成するのであれば、その人は、その道での「先駆者」なのだろう。ただ、私には、そのようなヒトに何かを教えようという気はない。あくまでも、どのような場面であれ、謙虚な気持ちというのは持ち合わせていなければならないのである、

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