思考力

人間を咳払いする

人間が、生産できる物質的な産物は、自然から得られた資源に手を加えたモノだけだ。例えば、今使っているパソコンだって、キーボードのプラスチック部分、表面を覆うスチール部分、内部の導線の細かな部品だって、人間が組み立てた物体だとしても、必ず、その原料となっている材料は「自然」から得た資源を加工して作り出した造形物。今、文章を書いている時に使っている椅子や机、マグカップであっても同じ。この全く否定できない事実を、改めて再考してみると、人間が資源の無駄遣いをする行為、大量生産・大量消費、さらに物体を作る際に生じる有害な副産物は、自然を痛めつけているわけで、最終的に結びつく結果として、人間は「自然」を破壊しているのではなく、自分たちの居場所を失っていることとなる。

道徳的な考えで「資源の無駄遣い」の善悪を判断することも大切だが、人間自身が繰り返している、効率性を上げてモノを大量に生み出す行為が、巡り巡って自虐行為となっているという自覚を持たなければ、真に環境破壊の流れを理解しているとは言えない。

人間が物質的に産みだせるモノが1つもないことを理解できたのであれば、人間はひたすらに他の生物のように肉体が滅びることを待つしかないのだろうか。もちろん、人間が「万物の霊長」と言われるには理由があるわけで、人間が他の生物と決定的に異なることは、二足歩行になり、脳を発達させ、言葉を遣うように進化したことである。多くの人間は、言葉を得られ得たことを幸運なことと認識しており、私だって同じく思う。ただ、物事には二面性があるように、言葉を受け納めて自分のものとしたことで、メリットばかりではなく、デメリットを含んでいるのも事実。

命ある全ての生物が「死」という不可避な終着点に向かっていることは、現時点では、絶対的事実である。そして、全ての生物が本能的に死を免れるために危険を察知し、反射的に身を守る。ただ、時間の流れの中で、どんなに足掻いても「死」から遠ざかることは不可能だと認識しているのは、人間だけだ。これは、言葉を遣いつつ「思考」を働かせた結果、全面的に受け入れざるを得ない「恐怖」であり、これを克服するために、哲学や芸術、宗教などの見えざる思想を生み出すことになった。この精神的領域の神秘は、人間が自然の力を使わずに創り出すことができた世界だ。

人間は、思考することを捨てられない。何かの行動を起こすときには、本能に頼るばかりではなく、多くの場合は思考を伴うものであり、その思考回路を常に明晰な状態にし、その後の行動の良し悪しを決める。だから、思考力を常に養成して鍛えておかなければ、常に何かに怯えることになる。逆に、思考力養成を気にも留めなければ、危険など知らぬ間に無謀な行動に走ってしまうことになる。つまり、ただ単純に生きているだけでは、何も進展することもない。

では、その避けられない「死」に対して、どのように思考すれば、恐怖で立ち止まらずに生きていくことができるのであろうか。とても難しいことではあるが、「輪廻転生」という考え方で「来世」を明るく迎えるため、現生を厳しく受け入れ、死を「解放」だと考えることもできるのかもしれない。

人類の歴史が始まったのが「2000年前」だとしたら、地球が誕生してから現在に至るまでの時間に比べれば、人間は降って沸いたような時間しか生きておらず、地球に時間感覚があるとしたら、人間の寿命など地球にとっては、咳払いをする時間だとも言えないほどの短さ。そう考えると、来世に辿り着く時間は、一瞬なのかもしれない。

物質的には何も生み出すことができない「人間」という生物によって、地球は大量の資源を失い、大迷惑をしている。地球にとっての人間の存在というのは、現在猛威を奮っている「コロナウィルス」のようなもの。人間をいう厄介な生き物を早く収束させるために、天変地異が起こるかもしれない。

ただ、地球という自然環境の中、つまり「自然界」で起こることには、嘘や偽りがない。少なくとも、現段階で、死の反対が「生」なのであるなら、その生きている時間の中で、自分が心から納得し、自分が受け入れられる自然からの全ての恵みを信じてみる。自然は、シンプルで美しい。そんな自然を破壊するような愚行をするのではなく、その自然から享受できる「美」から、自分を楽にする具体的な効果を手に入れられるのではないだろうか。

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