思考力

火種売り

今朝は、眠気が残りつつも、それに負けない勢いで起床し、東京へ行き、急に突発した体の不調を調べにいった。予約の時間には間に合い、大したものでも無いだろうと思っていたのだが、その異変の部分を診察してもらうと、ニキビ状の皮膚炎だと言われた。ニキビとは違うのだが、毛穴が詰まって腫れていくデキモノで、帰りの電車で検索してみたら、良性ではあるものの「腫瘍」であった。自然治癒することはなく、腫れが引いたら、地元の病院で切除等の治療が必要とのことで、何かしらの大きなゴタゴタになってしまいそうだ。

それはそれで仕方ないのだけれども、今日の分の眠気が簡単に訪れることはないようで、2時間ほど横になっていたのだが、フラッシュバックが酷くなりすぎて、もはや眠ることを諦めた。だから、こんな夜な夜な記事を書いている。これで、また明日のブログ作成の代わりになる。朝の日の光を浴びながらの爽やかなひとときを、過去の被害をつらつら書き連ねて無駄にしてしまうようなことだけは避けたい。今日発見された腫瘍は、悪性に転じることは滅多にないとはいえ、やはり切開しなければ治癒しないということを聞き、気分はゲンナリしてしまっている。

車で移動しているときには、相棒が4本積まれた状態なのだが、昨日今日と出番がなかったので、心なしか距離が離れていってしまったようだ。やはり、いつも乗っかっている物に乗らないと、気持ちが離れていってしまうのか、別に飽きてしまったわけではないのだけれども、いっときの熱狂のようなものが、少しだけ消えてしまったのかもしれない。実際に、自分のライディング映像が、あまりにもイメージとかけ離れていたのが、興味の失速の原因ともいえそうだ。

人は、慣れる生き物だ。その慣れというのが、熟成された状態での終わり方ならいいのだけれども、未熟のままとか、未完のままの終わり方をするのであれば、その分野での身に付けられたことというのは、極めて少ないものとなってしまう。だから、いつまでも自分の中で熟成させていたいモノがあるのであれば、それは末長く続けられるような期間や、健全なるペースを設けておかなければならない。昔、サーフィン中毒状態だった頃は、帰りの車の中で、すでにサーフィンをしたくなっているような手のつけられないような体質になっていた。今ではそんな状態はない。ただ、サーフィンとスケートという、似て非なるものとはいえ、サーフィンの練習用として開発された「スケートボード」という種目でやる気を漲らせることは正しいこと。そして、サーフィン狂だった頃の余波が、いまだに残っているのかもしれない。

自分の中で、どうしても消えない興味関心というのが、若い頃と同じものであれば、その喜びは、とても大きなものとなる。幼い頃、絵を描くのが好きだった。なぜかサッカーではキーパーの動きができた。音符も読めないのに、指揮者ができたし、言われるがままでもなく、進んで英語の勉強ができた。多才。こればかりは、親には感謝している「ギフト」だと思っている。かつて、私のことを「努力家で優しい人」と言ってくれた人がいたのだけれども、半分は間違っていて、何も言い返せない場面が多い木の小ささを隠せるだけの才能があるという表現の方が、的確なのかもしれないと思っている。

自分の体に、不安要素があるときには、それだけ自分の体が自分を求めているのだと判断し、より自分の健康に気を遣ってあげたいと思っている。そうでなければ、何のために生きているのだかもわからなくなってしまう。頭蓋骨を骨折し、もはや歩けなくなるとも言われたとき、また、内側からは鍵を開けられない病室で、自分が大暴れしたことを悪夢ではない現実だと知らされたとき、絶望感しかなかった。でも、何やかんや言っても、今の自分は生きているし、これからも生きていたい。これは、生命を持つものならば、誰しもが考えていることなのだ。それならば、その考え方だけは否定せず、自分の中で生きる希望を燃やす火種にしたいと思う、

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