思考力

猛スピードで逃げる貞子さん

 

個人的な愚痴ほど、個人のブログに書いてはいけないことを重々わかっていつつ、やはり書かせてもらいたい。読者の方が気を悪くなさらぬよう、最後の段落あたりでは、多少、前向きな考え方に結びつくような思索の道を用意したいとは思っている。過去の許せないニンゲンに対して、どうしても怒りが収まらずに震え上がってしまうような状況に陥っている人がいるのならば、その人への助言となるように書き進めていくことにしよう。

最後に勤めていた塾。私の理念である「選択肢を先読みしない」という考えを頑なに拒否していた生徒の顔。授業中に、ずっと私を睨みつけている。目が合うと視線を逸らせて首を傾げる。その時点で、私の授業中の集中力が外れてしまう。こちらの顔をうかがいながら、授業中に内職をしており「社会のテキスト見ていましたぁ〜」と大きな声で言い、教室の雰囲気そのものを重くする。挙げ句の果てには、少し遅刻して教室に入って来て、思いっきり教室のドアを開けて凄まじい音が響き授業の流れが完全に切れる。背後からの突発的な音に驚かないわけもなく、やはりこちらを挑発しているようで、ふてくされた顔で机に座る。休み時間は、私に聞こえる声で悪口を言っている。

コイツの睨んでいる顔が、ここ1ヶ月ほど、全く脳裏から離れず、左脳全体が痺れるような肉体的にも明らかに悪影響を及ぼしている強い怒りに揺れているこの頃。記憶力のない私は、私を慕ってくれていた多くの教え子たちの顔が、日を追うごとに、じんわりと記憶から抜けていくのに対し、ヤツの顔は輪郭まで鮮明に海馬から離れることがなく、まるで、綱なしで暴れ馬の上で翻弄されているか弱いカウボーイの如く、感情がグラングランと揺れている。地面に叩きつけられまいと必死に頭と心を守ろうとしても、今、Macのキーボードを打ち込みながら、まさに自分がアイツの術中にハマっていることに気づいた。あぁ、情けない。

こうなってくると、私の講師生活で受けてきたプライドを滅多斬りにされたアクシデントを、つらつらと回想することになる。目の前で「死ね」と言われた、親父の死をそしられた、個人情報を抜き取られて電話番号どころか住所まで漏らされた…。ここまで書きつつ、読者の方が離れていってしまうのは当然だと反省しつつ、ここまできたら、最後までこのブログ記事を書かなければ気が収まらない。心のカオスが負の沼の底へズブズブと潜り込むこととなってしまった。本当に申し訳ない。かつて、アメブロを書き続けていたとき、自分の不平不満で埋め尽くされたブログの文字が、形だけで簡単に崩れそうになりながら頼りなく並び、ギュウギュウ詰めに配列されていたことを思い出してしまう。これ以上は、自分の個人的なネガティブ体験を書き綴るのはやめよう。ここまで読んでくださった方に感謝しつつ、この怒りのマグマとどうやって折り合いをつけていくべきかを考察していくこととしよう。

まず、自分よりも辛い立場にいる人と現在の自分の直面している状況の小ささを、照らし合わせて考えてみる。これは、あまりいい解決策ではないと思いつつも、誰しもがやっている怒りで充満になった脳味噌の熱をクールダウンさせるシンプルな方法ではないだろうか。例えば、戦争や震災、それこそ、現在猛威を奮っている新型コロナウィルスによって命を落とした方や、それに巻き込まれている方々の苦しさ。いじめや虐待、暴力によって命を落としたり、立ち直れない傷を背負ってしまった人の痛み。生活する上で、どうしても避けられない人間関係の中、動くに動けない奴隷のような束縛を受けて身動きが取れないまま、社会の歯車にならざるを得ない人たち。考えればキリがない。だが、この他者視点のすり替えが、簡単に通用するほど「怒気」というジャジャ馬は、はがれ取れて削ぎ落とされることもない。では、次のステップに進もう。

相手を許す。相手の成功を祈り、自分の心の平安を取り戻すべし。「ムリです」。少なくとも、私のような「貞子」のような呪いをかける以外の解決策を見出せない器の小さな人物が、そんな全能の神のような穏やかな笑顔で、相手を許すことなんて大胆な芸当なんてできるはずもなく、そもそも、こんなブログ記事であっても「個人的な感情」を抑え切れていない小心者ができるわけがない。却下。

相手の不幸を願う。フムフム。これなら何とかできる。いやいや、考えてみれば、そんな「姑息な願い事」をやっているからこそ、怒りの制御ができていないわけだ。完全却下。所詮、「許せない相手 忘れる」のようなGoogle検索をしている時点で、問題解決しないから困っているわけで、このような怒りの感情に振り回されていること自体が、吐き気がするほどシャクに触る相手の思う壺なのだ。相手とチンチロで勝負したところで、そんな奴らの壺の中の自分のサイコロの目は、全て「阿修羅面」の「怒り」になっているわけで、相手は壺を開ける度に腹を抱えて笑うだろう。読者の方も経験があると思うが、憎悪の対象の挑発の嘲笑ほど、シャクに触るものはない。コレもスルー。

では、私が独自に編み出したの怒りに対する対処法を紹介することとしよう。「逃げながら憎む」。コレに尽きる。全速力フルパワーで走り抜く。物理的な距離を置くことはもちろん、強烈に憎むということだ。コレは、非常に効果が高く、「相手と距離を置こう」などという従来の慰めの爽やかな助言とは微妙に違い、相手が届かない場所で、尚且つ相手が見つけられない方向へ、憎しみを燃料としてガンガン歩を進めていくことに専念する。このパワフルなアクションは、最初はそれなりのパワーを要するとはいうものの、なかなかエキサイティングな考え方や技術、身振りを伴うこととなり、最終的に自分と相手の距離が測れなくてしまうような、実に決別するには健康的な精神的体力がつく。独りで一目散に逃げていくのは、とても積極的な行為であり、走れば走るほど周囲の見る目が変わり、嫌悪していた相手ですら、こちらの一挙手一投足に不安を感じるようになる。それすら気づかずにどんどん相手との距離を離して突き進んでいくと、まるで別世界が拡がっており、新しい聖地で、新しい志の高い仲間ができるのだ。

思い出した。そういえば、集団で私の努力をからかっていた卑劣な集団から逃げ出す為に、強い意志と共に努力をしていた結果、その輩たちが心の底から欲しがっていた世界を手に入れたことがあった。その素晴らしい結果を手に入れた途端に、その輩たちから電話があった。「コンパやってください」。静かに通話終了のボタンを押したことは言うまでもない。その後、エクセレントな友人と出会い、今でもシッカリと交流が続いている。着かず離れずの状態もキープしているので、そちらの関係を大切にした方がよほどマシと言える。そういえば、そんな積極的な逃避記録を回顧しながらキーボードを叩いていたら、現在トラウマになっている生徒の顔など忘れていた。せいぜい選択肢を先読みして自分の畑で努力してくれ。私は、全く正反対の「選択肢先読みは邪道」というスタイルは崩さない。やはり、自分の姿というのは、自分の考えに対して、逆らい背いて反逆するような者と比較することで浮き彫りになる。ありがとう。とても勉強になったよ。

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