思考力

切り離すための思考の方程式

 

時間軸を整理整頓して考える。これは、現在の自分自身の考え方を整理するときに、私がよく利用する思考法だ。今、ここに生きる自分が置かれたポジションが、どのように自分の未来へプラスにつながるのかを考え、これからの人生を、いかに工夫して攻略すれば良いのか。一度きりの人生なのだから、いろいろなことにチャレンジし、大胆に生きるとか、日々の考え方がマイナスの方向へ傾かない為に、ブログの作成の際に、自分の文章の最終的な結論を、未来をポジティブに変えられるような言葉の伝え方に変えるなどの工夫をしている。

この考え方のフレームワークを考えるときには、必ず「過去」の失敗と、それと対比する成功した経験を基に考える必要がある。だから、年齢を重ねるたびに、人の生き方というのは深みを増すもので、人生経験の時間の中で大きくなった心の年輪が、ただ広くなっただけのスカスカな人の心では、ある時に生じる乱れた感情を整理することができず、生きる上で一歩を踏み出すため必要な心の強さを発揮できない状態になってしまう。

もちろん、未来へと生きるときに、人生の最期に向かう我々は、どんな人であっても後悔しない生き方を望むわけで、その為には、自分に降りかかってくる全ての問題の局面を乗り超えることに対して、全力で体当たりするのではなく、明らかに避けることが困難な局面では、「逃げる」ことで本当の強さを発揮できることもある。ただ、無気力な状態で立ち止まり続けることは、できる限り避けなければならず、立ち止まってしまっている挫折を、過去の失敗原因から考え、いかにして自分の「やる気」を奮い立たせられるかと考えることが、自分の人生を好転させる為に必要なことにもなりうる。

先日、他界した母は、どんどん迫ってくる自分の人生の最期に対し、どのような心もちだったのだろうか。よく言われるように、臨終間際に今までの人生が「走馬灯」のように脳裏を駆け巡っていたのかもしれないし、全てとは言わずとも、人生の満足感と共に、「人事を尽くして天命を待つ」状態だったのかもしれない。恐ろしい病原菌がウヨウヨと空気中にいて、いつ誰が感染するのかもわからない混迷時代に、母と私の強い「共依存」によって、弱り切っている私の今後の人生を、最後の最期まで気にかけてくれていたのかもしれない。

昨日、オンライン授業のときに、医学部・歯学部・薬学部を志す、とても心優しい受験生の指導をしていたとき、学校で「死の告知」に関する授業が行われているということを知った。任意選択の授業だったようだが、その内容の大まかな流れは、自分の意見を発表し、そのテーマをクラスのメンバーで意見を交わし合うという授業のようだ。素晴らしい。このような授業というのは、大学のゼミでもない限り、なかなか経験できないことであるゆえ、とても良い高校だと思う。

自分の人生において、今までの自分の中に「無い」考え方を、これから未来へ向かう為に「有る」状態へ昇華させる為には、受験の数学の方程式ではない、考え方そのものを根本から考え直す「論理的思考」が不可欠だ。もし、今日の時点で、良きせぬアクシデントで自分の人生が終わってしまうのなら、どうすれば良いか。それは、やはり常日頃から自分の人生を「時間軸」の上で考え、そのピリオドまでの行動を逆算して考えなければならない。現在の状態は、過去の経験の中のどこに類似していて、どこに相違があるのか。では、そこから未来へ向かうときに、自分は現在の状態で、どのような動きをするべきなのだろうか。それを考えること。そして、このような思考回路を、常に頭の中で張り巡らせておくことは、どんな世代の人であれ、決して欠かしてはならないのだ。

今日、この記事は手書きの原稿を基に作成した。もう、最近続いていたような、自分の「今」だけの感情に任せたブログを書くことは止めよう。時折、母の他界について書くこともあるはず。ただ、それはあくまでも記事の主題にすることはなく、自分の文章の記事は、未来へ向かうベクトルに向けて書き綴るべきなのだ。

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