思考力

無き中の潮流

例えば、身体のどこかを怪我すると、いかにその部分に頼っていたのかが分かる。私は、現在、右膝を痛めているので、立ち上がるときや、足をひねる動作をするときに痛みを感じるので、膝という部位の重要性を理解できる。現在、このブログは、マウスが故障している状態のパソコンで書いている。やはり、マウスが無ければ書き損じの部分までワンタッチで戻ることができなかったり、コピペするのにも時間がかかったり、そもそもいつものブログ記事作成における文書の作り方に、大きな違和感を感じてしまうことは事実だ。

こうなってくると、マウスをなくしたことで、いかにマウスに頼り切っていたのかが理解できるし、一度でも、また無意識のうちでも何かに依存してしまったのであれば、その対象がなくなってしまったときに、違和感を感じたり、それを使って何かを進めること自体が難しくなってしまう。実は、これは「人間関係」にも同じことが言えるわけで、いつの間にか疎遠になってしまったひとや、いきなり喧嘩別れをしてしまったような人にも当てはまる。そう言えばいなくなっていたと感じるようになるまでは、自分の心が穏やかになることは難しい。

私の母の命日が、もうすぐやってくる。母を亡くしてから数ヶ月は、泣かない日は無かった。やがて、兄が遺骨を引き取りにきて、母の遺影を見ずに済むようになってから、母のことを思い出すことが減っていった。たまに、肉体的に相当に疲れている時や、過去の出来事がフラッシュバックしてしまうとき、そして今、母のことを強く思うときに、目頭が熱くなって涙が出てくることがある。私にとって、母は、本当に偉大な存在であり、幼少期に病弱だったり、最期の最期まで気が小さく、それをひた隠しにしている自分のことを見逃さないでいてくれた。そんな母が、今でも自分のことを、遠くから見守っていてくれていると思うと、やはり何やら頼もしい気持ちになる。命日を迎えるというのは、それほどまでに、あたたかいものなのだろうと思う。

母と過ごした最期の地である外房の現在の住居。そう少しで引っ越すことになる。ただ、それは気持ちばかりが先行してしまっていて、そもそもの物件が決まらない。何かに足止めを食らっているかのようだ。ただ、自分の中で、いまだに消化し切れていない何かが、この地に残っているのかもしれないと思うと、やはり今は、焦るべき時ではないのかもしれない。どのように動いていくのか。それは、潮の流れのように動く時間の中で、大きくゆったりと流れゆく川の中で考えていきたいものである。

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