思考力

不利な症状に感謝する

何事にも、裏と表というものがある。神様だって完璧なものではない。仏教とキリスト教であっても、崇拝する神の対象が違うし、その両者の間で、大きな争い事も起こり得る。そうなってくると、結局のところ、自分の裏と表の境界線のようなものを決めておかなければ、常にハッピーになるか、常にアンハッピーになってしまうかの両極端なモノの考え方に陥ってしまう可能性だってある。このような点における線引きこそが、個々人がもつ価値観というものにつながるのであり、他人から押し付けられた価値観で我慢して生きるほど、人生は長くないのだ。

そう考えると、最近何かと耳にする”HSP”なる「繊細さん」のことが気になってくる。物事を、一面的にしか見られない人にとって、繊細さんの生き方というのは、生き辛く感じるであろうし、当の本人だって、自分の繊細さに疲れ果ててしまうことだって多い。まさに、私も極度のHSPである自覚はあり、具体的に言えば、他人からの悪口や悪態を常に気にするような気質であり、後ろからの車のクラクションですらビクビクする。繊細さんというより、気が小さすぎるだけなのかもしれない。これは、HSP寄りのSADとも言える。なんだか、強迫性障害の話になりそうなので、自分の症状の話は、とりあえず横に置いておく。

HSPがやる気になるきっかけとはなんだろうか。それは、やはり過去の偉人たちと自分に合致する部分があるということに気づいた時が、その契機に当たるのかもしれない。過去、歴史的に大きな偉業を成し遂げた人というのは、やはり多かれ少なかれ、エキセントリックな生き方をしていたわけで、その特異性や気質によって、自分の生きる痕跡を世に遺した訳だ。すると、HSPに該当する人というのは、何やら優れた才能を持つ人が多いとも言えるのかもしれない。

ただ、そこまで強い症状を持つHSPの人たちが、そんなに簡単に自分の特異性を前面に押し出せる程、事態は軽くない。そんなに目立ちたがりたいのであれば、それはすでにHSPを克服しているというより、そもそもHSPどころか、ただの出しゃばりであるのかもしれない。よく、自分は繊細人間で、鬱に苦しんでいると言いながら、実際は相手の心の痛みなど考えず、ズケズケと他人の心に土足で入り込んでくる無神経な輩もいるが、そのような人が、さらに勘違いして、「にわかHSP」にならないように願うばかりだ。

昨日は、自分の経済状況があまりにも苦しく、フードバンクにて大量の食料を頂いてきた。これも、本当に申し訳なく思いつつも、生きるためには、どうしても仕方ないことのように思っての判断だった。フードバンクに行けるだけの精神的余力があるのなら、HSPではないのかと言えばそうでもない。食料を手渡してもらう時には、胸がドキドキして、自分の舌が回らず、オドオドとして頭が真っ白になってしまった。その後は、悩み事相談のチャットで、2時間以上、相談員と今の状況を相談させてもらい、もはやお先真っ暗であることを伝えた。

確かに、世の中、図太い人間が得をし、繊細な人間が前に出られず損をするケースが、半分よりやや多めに起こるような気がする。ただ、そんな「面積」の大きさの問題ではなく、自分の性格をよく把握しつつ、自分の生き方を模索した方がいい。HSPである自覚があるのであれば、それは相手を思いやる力があるわけで、繊細さは優しさだと思えるくらいの積極性だって必要なのだ。そうすることによって、自分自身の存在に感謝することだってできる。対象に対する観点というのは無数であり、自分の現在のスタンスから、自分にとってプラスになる捉え方をすることというのは、辻褄を合わせるということでないのであれば、とても有利なことだ。

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