思考力

共通風評被害

大学入試共通テストが終わった。今年の受験生は、多かれ少なかれ、試験を受けるまでに混乱に陥らざるを得ない状況。新しいテスト形式に落ち着いて対応するには、あまりにも過酷であったはず。おそらく、学校でも塾でも、満足な授業を受けられていない訳だから、特に授業料を受け取ってサービスをしている会社組織ならば、ある程度の返金をするべき。塾や予備校は、致し方ない状況なので返金できませんとなるのは間違い無いと思うが、消費者は怒っても問題ないと私は思う。

「いつでも質問OKな自習室を完備しております」「参考書も問題集も完備してコピーも無制限でございます」「ピカピカな校舎でカフェのような空間へようこそ」なんて謳い文句をしている産業だが、それをほとんど活用できていない場合は、やはり返金クレームを受けても仕方がないと言える。まだ、そのことに対して問題になっているという情報は耳にしていないが、そのような予期せぬ事態に対応し切れていないのであれば、わざわざ足を運んで授業を受けにいく対面の授業などは、どんどん衰退が進んでいく。

講師がマスクをして呼吸困難寸前でパワーを消費しつつ、目の前にはマスクで顔も名前も憶えきれていない生徒たちが、無表情で黒板を見ている。これでリアルな対面授業と言えるのだろうか。最近では、塾業界では無いにせよ、蛇口を触れたことでコロナに感染したケースも出てきているので、心を込めて作ったプリントですら「迷惑行為」として毛嫌いされていくのだろうか。ただ、その方向で進むことは、遅かれ早かれ間違い無いと言える。そもそも、政府から自宅待機を「お願い」されている状態で、教室に来て「こんにちは〜」と挨拶している状況というのは、反抗期の生徒が一丸となって、政府に対しての集団で反逆しているという行為。それを加熱させている企業は、責任を取れるのだろうか。もし感染拡大したら、責任はどちらになるのか分からない、責任転嫁のドッチボールとなる。ここまで事態が深刻化していても、呑気に今までのスタイルを変えない塾や予備校は、ある意味で「頑固一徹ラーメン店」であり、時短要請に応じない店舗。頼むから「お酒」の提供は控えてほしい。相手は、未成年なので。

完全に、かつての陰湿な企業に対しての批判と化してしまい、キーボードを打つ手が、自分の思考スピードを追い越してしまうが如く、長文が完成してしまった。およそ「800文字」。キリがないので、今年度の「共通テスト」に関しての内容に戻ろう。専門が英語なので、英語に関しての講評になるのだが、ネットでの英語の問題に対しての風当たりは厳しく「問題量が増えすぎ」「事前に行われた試行テストと違う問題が多くあった」など、問題が「難化した」という批判が多い。確かに、新傾向になったり、問題を新しくする年は、問題の難易度を若干低くする傾向が多いのだが、あくまでもそれは、「傾向」であって「決まり」ではない。そして、一部の受験生の問題用紙だけが違う問題になっているわけではないので、難易度の調整に対しての議論は、少し論点がズレてしまうような気がする。

では、問題文の量と設問形式に関して考えていこう。まず、問題文の量であるが、確かに多いとはいえ、そこに批判をするのではなく、どうして量が多くなってしまったのかを考えるべきだと思う。テストというのは、必ず答えがあり、その答えに至るまでのプロセスの中で、出題者が受験者に対して問いかけている「メッセージ」が、必ずある。そのメッセージは何かということを、常に考えながら試験を受けるべき。今回の「共通テスト」の問題文の量に関しては、日頃から教養として英語に対して関わっているのか。あるいは、点を取るための速読ではなく、思考力を高めるために内容を吟味するという読み方が要求されている。つまり、問題文の量が増えたということは、幅広い情報を得るために、まずは文章全体をしっかりと読むこと。筆者の言いたいこと、そのグラフが示していることを「客観的」に捉えることを優先するということだ。したがって、「読みながら解く」という、いかにも「合理的に本文と設問を読解しています」という、カリスマ講師の手品のような解法は、問題を「解読」するための練習に過ぎず、たとえ受験問題を長年研究してきた講師ができたとしても、受験勉強を数年しかせず、その後の人生では、正解を出すための選択肢など不要となる潜在能力を持つ生徒は解けないという「悲劇」しかなくなる。こうなってくると、問題を解きながら、一読して解答を出すという方法を「ウリ」にしていた講師たちが、路頭に迷うことになる。

最近の予備校の「現代文」では、「選択肢先読み」が否定されてきている。筆者の先回りをして、勝手に結論を予測することなく、しっかりと筆者の主張を受け取った上で、その主張を明晰にした状態で問題を解いていくという「本来あるべき読解」が、定着した。これはもちろん、日本語の読解だけではなく、英語であっても同じで、まず文章を読んで、しっかりと筆者の考えを理解するという前提で問題を解くというのは、決して変わらないと私は思う。専門家ではないけれど、他の言語でも当てはまるはず。このような当たり前の文章読解を、「今後の学力向上の学習に取り入れてください」という出題者たちからの「暗黙のメッセージ」だと私は、認識した。

では、設問に関してはどうだろうか。今回の問題の傾向は、やたらと数字や固有名詞を考えさせる「情報処理能力」が試されていた。これもやはり、まず全体の文章の流れを意識した上で、設問で問われた数字や固有名詞などの「言い換えがきかない部分」を確実に対比させて解答を出すという方法が求められる。情報社会の中で、文章と数字の関係を見抜く能力は、間違いなく必要であり、その能力がなければ客観的にタスクをこなすことは不可能。それであれば、どのような文章であれ、データを意識することは“fact”をつかむことであり、判断力を養成するには不可欠な情報処理能力を試験するということは、至極真っ当なことである。試験には、"opinion"の問題も用意されており、客観的データに基づく内容に対する意見を、他の人の観点から考えさせる要素の問題もあった。これは、記述式を導入しきれなかった出題者側が、自分の意見を述べる際に、必ず客観的データを踏まえた上で、自分の意見をしっかりと主張できるようにする学習を深めてもらいたいという考えから作られたのだと思っている。ただ、これに対する世間の風当たりもやはり強いのが現状だ。

情報が多く飛び交う昨今、共通テストの問題に対しての辛口な意見が多いのは事実だが、本当に出題者が求めていることを考えた上で、自分の考えを持ってほしい。マスコミやSNSのトリックである「不安を煽って周囲の関心を引きつける」という悪い手口に惑わされてはいけない。出題者の求めているこれからの「想い」をしっかりと考えた上で、今後の学習に努めてもらいたい。間違っても、自分ができない理由を、他に求めるような情けない態度で学習してはならない。しっかりと自分の力を見極めた上で、問題に対処する思考力を養成してもらいたい。下手な風評被害で巻き起こる「共通テストに対しての偏見」を無くしていこう。

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