思考力

重ねられる味

気づくと今日は雛祭りの日か。最近服用し始めた薬との相性がいいのか悪いのか分からぬが、やはり睡眠時間が長くなりつつ、多少無理をして起きていると、日中に強い眠気に襲われて、そのまま眠ってしまう。そして、気づけば日付も変わり、ふとカレンダーを見ると、3月3日の愛でたい日であることに気づいた。体内時計の時差ぼけの始まりとも言える。こうやって年齢を重ねていくと思うと、何やらやるせ無い気持ちでいっぱいになりつつ、自分がこのまま何も残せないまま果ててしまうのではないかと不安になる。

「水」という概念を考えてみる。もちろん「風」でもいい。これらは、漂っているだけに過ぎず、ある強い自然現象が加われば、大きな脅威となりつつも、対比させて考えれば、そこに穏やかさが加われば、一気に快適な恩恵を受けることができる。人間は、そのような恵みを享受しつつ、それらを破壊しているわけだから、とてもわがままな存在であると言えよう。もちろん、私だって存在しているだけで何かを消費したり、地球や自然界の恵みを吸収して生きながらえているのであるから、私という存在そのものも、自然界にとっては厄介者なのである。

最近は、実に考え方そのものがマイナスの方向へと傾いてしまうようになった。いや、マイナスというよりも、何やらしらけた方向へと進んでいっている気がする。何の音沙汰もないように、ひっそりと息をしていられるだけで幸せであるかのような生活を送っている。もし、こうやって自分の気持ちを毎日綴っていなかったのであれば、どこかの段階で自分という存在そのものを失ってしまっていたに違いない。だから、こうやって洞窟の中で綴る手記の如く、ブログを書き綴っているということは、自分にとって非常に有益な好意なのだと思っている。

ただ、今確実に言えることといえば、かつて書いていた、アメブロの愚痴ばかりのブログよりは何倍も意味のあることだと思っている。私の文章力が上がったのだろうか。私は、そう考えることは決してしない。私は、単に年齢を重ねただけである。年齢を重ねれば、その分だけ経験が重なることは確かなことであり、そこで表現すべきことと、表現してしまえば陳腐な文章になってしまうという分別がつくようになっただけだ。表現力。そこには確たる経験が必要なのであり、その成熟されていく文字の中に、深みと心地よさと苦味を入れて芳醇させていかなければならないのだ。

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