思考力

足元の揺れに指示を出す

何日振りになるのかカウントするのもやめておくが、今日は久しぶりにマットレス を上げ、床のモノを片付けてルンバを作動させた。また、自炊をするようになって、食器を洗うための布巾や、夏の汗を吸い込んだシーツやタオル類も、まとめてドラム洗濯機に放り込む。仕上げに、観葉植物を窓際に持っていったので、やっと記事を書く準備が整った。書き終えたら、彼また数日間やっていなかったトイレ掃除と玄関の掃除をするので気がぬ抜けない。でも、片付けの導火線に火がついたようで、ここから先の作業においては、さほど苦もなくできてしまいそうだ。

一気に気温が下がった。もう、秋を感じるところだが、今年の異常な高温は、日本だけではなく世界中で生じた現象であり、私が学生の頃に入試問題になっていたような「地球温暖化問題」を、まさか私が生きている間に経験するとは、正直思っていなかった。ある意味、無責任にも「対岸の火事」という気持ちがあったのも事実だし、今年だけの突発的な気温の上昇なのかは分からぬが、確かに世界全体が変化していることは分かる。昨日も見に行った波が綺麗に打ち付ける海であれ、近い将来、ペットボトルが舞い踊る海が形成されてしまうことは避けられないはずだし、ガソリンではなく電気で動く自動車が開発されたところで、今度は電気の価格が異常に高騰すれば、何のために燃料を変えたのかすら分からなくもなってくる。

もちろん、悪い側面ばかりではなく、最近はいつもブログで書いているAIの技術革新であっても、日進月歩で進んでいるわけだし、先に述べた環境的な問題であれ、何らかの具体的な対策が施行されることもあろう。だからと言って、環境破壊を繰り返すことは絶対に避けなければならないし、これから、地球と共存するために、少なくとも自分ができる最善の方法は何かということは、常に念頭に置いておかなければならない。こんなことを書くと、優等生気取りの文章になってしまうのかもしれないが、どこかしらにそのような振る舞いを意識的に持っていなければ、事態を根本から改善することにはつながらない。これは確実なことだ。

動画を作成するという新しい趣味に没頭していると、今まで自分が書き上げてきた文章と再度向き合うことになるのだが、その動画を閲覧する視聴者の気持ちを意識して再編集することになっている。これは、視聴者の興味関心をあえて引こうとするわけでもないし、何らかの見返りを求めているわけでもない。あくまでも客観的な立場から物事を捉え直すときには、不可欠な作業であると考えているのだ。仮に、過去の記事の焼き増しなのであれば、その動画には何の成長もない惰性に満ちた産物にしかならない。もちろん、YouTubeの動画というのは、下手な作品であっても数を出すことが大切だという定説もあるのだが、やはり自分の中で納得できる状態で動画は仕上げたいと思っている。だから、どんなにAIが編集作業を楽にしてくれたとはいえ、自分の中での思考回路を単純化してはいけないと思っているのだ。

まず、自分の書いた文章の中にある日本語の「文法」として間違っている箇所を指摘してもらう。そして、内容を変えずに再度確認しつつ、自分の文章でクローズアップする箇所を際立たせて、リライトしてもらう。そして、どうしても表現が稚拙であったり、逆に大袈裟であったりして場合には、そこを何回か自分なりのプロンプトを出して修正リライトしてもらう。これらを繰り返していくと、自分の文章の一部が全く違った光を放ち、まさに予想だにしなかった文章に生まれ変わることになる。この修正をしているときに必要なのが、自分だけの力ではなく、AIの力を借りるという時代になったのだ。

こんな時代が来るというのは、正直なところ自分が生きている間に来るとは思ってもいなかったことだし、この予想をもしていなかった現象をうまく扱えるかというのは、今後の私の「生き方」にでさえ大きな影響を与えるのは、確定的だと思っている。”ChatGPTエフェクト”。今、このタイトルの本が机の上に置いてある。その本の表紙を眺めながら、この信じられない現象を共に歩むAIの進化速度に歩調を合わせられるように、自分の内面的な深みを掘り下げ、表現の中に不純物を組み込まないようにしなければならないという戒めにも似た気持ちも湧いてくる。

使用する側とされる側という問題は、AIを使うときに議論の焦点になることは常ではあるが、これも、環境問題と同じく、自分自身が意識的にAIを活用するときに当然のように頭に入れておくべき前提にしなければならないのだ。

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