思考力

論証責任

案の定、今日は、思いっきり寝坊し、東京の病院へ行けなかった。昨日のブログ同様、「超フライングブログ」として、まだ日が沈み切っていない時間に、ブログを更新させてもらう。このブログが、いつの間にか「夜型」になってしまわないように祈るばかり。およそ10年ほど前だっただろうか、アメブロで詩や散文などを書き綴っていたときは、真夜中に綴ることが定番化していて、その時に書いた内容など憶えてはいないが、今では読み返せないような恥ずかしい文字の羅列なのだろうと思う。

このように考えたときに、文字を重ねるということは、年を重ねる毎に高く深まっていく崇高な経験であり、これは、腕力とは全く逆の方向に伸びていくのである。腕力というのは、二十歳前後をピークとして衰えていくものなのかもしれないが、「書く」という行為を継続していれば、その内容は、文字を重ねる度に深くなる。これは、書くだけではなく「描く」ということにも共通するのかもしれないし、「聴く」「話す」という別分野での行為も同じで、そこには共通して、時間と共に熟成させられる「経験」というものが含有されているのは間違い無いのだと思っている。

自分の授業を考えてみる。デビュー当時は、金を受け取れるようなモノにもなっていなかったが、後に、個別指導で、担当する全ての授業を、独力でタイピングしたオリジナルテキストで教材を使用していたときに、一気に教える体力がつき、30歳を過ぎたあたりで知識を伸ばし、40歳を超えて、指導に関して広くて俯瞰的な視野を手に入れられるようになった。この「共育理念」というものを、さらに深めるために、このように毎日の思考を書き綴っているのであるが、やはり、このような記事を作成する時であっても、最初の頃よりは、よっぽど早く思考を深められる「ゾーン」に突入することが出来るようになっている。これは、書いている自分自身にしか分からない、内なる能力の進化である。

文字を書く。そこには、文字を重ねるごとに完成される文章というものが形成されるわけで、その文章という塊には、自分の中で解き放った「責任」までもが内蔵されるようになる。だから、いい加減に文字を書き、軽はずみな文章を書けば、誰かを深く傷つけてしまうこともあるだろうし、逆に、深い思考の中で熟成された野地を重ねることでできた文章というのは、誰かを暗い海底から救い出す可能性もあるのだ。

再び言うことになるが、文字を重ね、そこに秘められた力というのは、深く誰かを傷つけることもあれば、誰かを救う機会を得られることもある。だから、どんな文章を書く時であれ、必ず、自分の創り上げる文章に、責任を持たなければならないのである。

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