思考力

花を持つ少女 拡散希望

 

「周囲は何故気付いてあげられなかったのだろう」「言ってくれれば助けてあげられたのに」「今思い返せば…」。学校でイジメが起こり、そこに「自死」を選んでしまった生徒が出てしまうと、必ず漏れてくるセリフ。北海道旭川の中2の少女が、イジメられ、凍死して発見されるという事件。何とも痛ましい。遺族は、心の底から湧いてくる怒りの感情を抑えることはできるはずもない。ただ、考えなければいけないこととして、冒頭で書いたセリフには、ほとんど意味がない。亡くなった少女は、幾ばくかの「信号」を生前に送っていたはずであり、周囲は被害者の言動を察知できなかった「自分」を責める必要もあったのではないだろうか。

私は、詐欺まがいの契約で自費出版本を出したという「黒歴史」がある。そして、その自費出版本のなかで、自分の「黒歴史」である「イジメられた過去」を書き遺している。毎日、いじめっ子に呼び出され、殴られ、蹴られる。無視されたと思いきや、殴られる。地獄のような日々。繋がらない「命の電話」。やっと繋がった電話の先の相談員に話をしながら、ボロボロと涙が溢れてくる。仕事から帰ってくる母親の6時までに、とにかく泣いていることがバレないように電話をしていた。絶対に、母にだけは知られたくない。

毎度のこと、やっとつながった命の電話の相談員は、どんな相談員であっても、「担任の先生へ一刻も早く相談する」ことを指示された。同じようにイジメられていた友人と共に、個室で担任の先生に相談している時に、ボロボロと涙が出る。親身になって聞いてくれる先生だったが、具体的な措置は全くしてくれなかった。何度も相談に行ったところで動いてはくれず、泣きながら個室から出てくる私を見た他の先生は、泣きながら出てくる私を見て、私が毎回先生に怒られていると勘違いし、「毎回悪さをしている生徒」というレッテルを貼って、私を揶揄していた。「悪で有名な佐藤くん」となってしまったのだ。今考えると、とんでもない誤解だ。

当時、この件についての一番の理解者は、毎週「鯉釣り」を子供たちに教えていた、多摩川にいる「おじさん」だった。通称「エロイおじさん」。子供たちが、「性の目覚め」の時に、自分の性器から出てくる得体の知れない白い液体が何者なのかを、丁寧に教えていたことから、そのように呼ばれていた。性教育がタブーとされている時代。「エロイおじさん」の存在は、希少だったに違いない。そんな「おじさん」は、もちろん「イジメ」についても、じっくりと話を聞いてくれ、親身になって相談に乗ってくれた。

かつて、私より遥かに酷いイジメを受けていた子どもが過去にいて、その子に比べれば、私が受けていたイジメは「軽度」だと言う。その子は、殴る蹴るは当たり前。カツアゲを「命令され」て、知らぬ生徒にカネを盗りに「行かされ」、挙げ句の果てには、女子生徒たちの目の前で「自慰行為」をさせられていたという。これは、どれほどの地獄だったのだろう。たしかに、一人の人間にイジメられ、イジメられていたのは私の他に、もう一人いたわけだから、私の痛みは「半分」とも言える。ただ、その強烈なイジメを受けていた人と比較すれば、やられていることは「軽度」であれ、心で痛いという気持ちに変わりはなかった。

いつも通り、母が帰宅する前にかけていた、なかなか繋がらない「命の電話」の相談員に、「あなたがボクシングをやって仕返しをしてもムダなのよ」とアドバイスされた。しかし、そのアドバイスとは逆に、当時流行していたヤンキー漫画の主人公が「ボクシング」をやっていたこともあり、その漫画の切り抜きを母に見せ、「こんなにカッコイイボクシングをやってみたい」と言って、ボクシングジムの入会費をもらって、ボクシングジムに通っていた。母は、多忙な中、私がやりたいということには、何の疑いもなく出資してくれた。母には、その理由を正確に聴く時間が取れないほど忙しかったことと、その理由を知ったら、母が、どれほど悲しむだろうということを分かっていたので、私は、ボクシングを始める本当の理由を、ひた隠しにしていた。

結局、イジメはエスカレートするとともに、そのいじめっ子の暴力の範囲そのものが、ますます拡大。やがて、その被害者数が増加の一途をたどる。私とともにいじめられていた友人と共に、イジメを受けていた者を集め、私の小学校一年からの頼もしい腕っ節の強い友人に相談し、そのいじめっ子をトイレに呼び出し、皆を集めて「〆る」こととなった。いじめっ子は、自らの非を認め、「殴ってください」と言い、一人ずつ殴ることになった。誰が見ても一番被害を受けていた自分の番になったが、余りにも肩に力が入り、緊張が体を強張らせ、私の拳は空を切るだけに終わってしまった。

このいじめっ子にとって、このトイレでの出来事は「人生の黒歴史」の強烈なトラウマであり、私がいないところで、私に対して心の底から懺悔をしたいと言っていることは、聴きづてに聞いていた。彼から見れば、私は殴っても蹴っても「効かないヤツ」だという認識だったらしい。ただ、本人から直接の謝罪があったわけではなく、「ダブル成人式」なるものがあった時に、謝罪があったわけでもない。しかし、彼が私に「何か」を言いたそうなそぶりをしていた事は、確かだったと感じた。

今、このように過去の地獄の日々を書き直しても、どこかで誰かがイジメを「防ぐ」ことはできたはず。しかし、誰も私を「守る」ことはしなかった。特に、担任の先生は、具体的に動く事は十分可能だったはずだが、それを実行することはなかった。ただ、今でもその先生に対する尊敬というか、感謝の気持ちがあって、今でも毎年「年賀状」を書いている。自分は「M」なのか。いや、そんなことはない。私は、ただの「お人好し」なのか。おそらく、それは該当している。

記憶力を高める研究が多く行われている。YouTubeを開けば、記憶力を高めるBGMや、集中力を高めるJazz。ネガティブな過去を消し去るための研究も進んでいて、これまたYouTubeを開けば、ボサノヴァの癒しのラブソングや、眠りながら幸せに目覚められる癒しのBGMが、星の数ほどある。ただ、このような地獄絵図のような過去の歴史を、朝カフェBGMを聴きながら、春の突き抜けた青空から降り注ぐ光が差し込む部屋の中であっても、消し去ったり、書き換えたり、癒すことはできない。

生きる中で一番大切なことは、死に至るような至極危険なシチュエーションに置かれているのであれば、どんなに高いステータスに居たとしても、それを捨て去り、仮に全財産を奪われたとしても、命を奪われないように全速力で「逃げる」ことだ。私は、中途半端に強かった。釣りの「エロイおじさん」に言われたことだ。本当に弱かったのであれば、当時の言い方でいえば「登校拒否」という名の不登校をして、自分の状況をアピールすることもできただろうし、教室の中で大泣きしてアピールすることだってできただろう。それを、中途半端に強かったから「耐える」ことができてしまったのだ。

「自死」を選ぶことは、決して「弱い」ことではない。むしろ「強い」。適切な表現ではないのかもしれないが、死は「解放」なのかもしれない。辛い環境に耐えることを「美徳」とされていた時代も、ずいぶん変化したように思われる。しかしながら、具体的にイジメの問題が明るみに出ているのは、氷山の一角であり、潜在的に過去の「美徳」を追求している被害者が、莫大な数で存在している。そして、そのようなイジメの問題というのは、今後、絶対に終わりを迎えることはない。右が存在するためには左が必要。上が存在するには、下が。東には、西。そして、平和には不幸あたりが対極となるのか。そう考えれば、イジメがあれば、イジメ「られる」者の存在が絶対に必要なのだ。だから、「イジメ」という卑劣極まりない概念とシチュエーションが消えることはないといえよう。少なくとも、言の葉の上では。

すでに私が「愛する」という状態になっている『君の名は。』の新海作品『天気の子』。個人的には、『君の名は。』を超えるとは、到底思えなかったのだが、そのワンシーンで印象的だったのは、山手線だろうか、主人公が大雨の影響で「電車」という大きな物体が動かなくなった「晴れ間」の頃合いで、その線の外回りの動きである「時計回り」を「逆走」して走っているシーン。光輝く太陽の日差しの中、線路に入る時に負った頬の傷跡を背負いながら、渡されたヘルメットを脱ぎ捨て、周囲の嘲笑と視線を省みず走り抜けていく場面。

生ぬるい環境の中、人生をつまらなく過ごしているヒトタチ。そんなヒトタチに、自分の苦しみや痛みを表現するための「魔法のクスリ」があるとすれば、自分が泣き叫んでいるライブ配信中に爆笑されようとも、自分の叫び声を上げ続けるしかない。そして、それは限りなく強く。力の限り長く。私が、毎朝毎朝、書き綴っているブログ。これは、真に限りなく強く、真の自分の心と魂を込めて発信している。ただ、一時的な叫びではダメだ。半年、一年、二年。いや、自分の発する「言」の「葉」たちが、多くの人の心の「庭」の琴線を揺らせるほど強くなるほどに長く綴らねばならない。

インドでは、二重変異コロナウィルスの影響であろう、1日の感染者数が「3.3万人」を超えてしまった。アメリカの1日の感染者数よりも超えた、世界過去最多更新。地球の面でいえば、インドとアメリカは、表と裏。そして、経済的自由を目指す人が多く生活しているアメリカが、現在、最も頼りにしているインド。コロナウィルスの脅威は測り知れず、もはや「精神論」だけで乗り切れる状態では決してない。ただ、インドが「3.3万人」の検査ができるだけの医療体制が整っているのも事実。コロナウィルスが、私たちを「イジメ」ているのであれば、我々は、一丸となって「コロナ」を抑えつけるアクションが必要なのだ。

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