思考力

美の境界線

千葉に来て一年目の学習塾で、オリジナル講座を担当したとき、いつものことながら、凝りに凝ったプリントを、毎回毎回、大量に創っていた。英語が全くできない子供たちが、どんどん成績を上げ、最終的には、模擬試験でも学校の試験でも、コンスタントに9割以上を出せる実力がついた。その時の雑談は、「美」とは何かということだった。もちろん相手は、中学一年生。ありきたりの回答しか返ってこなかったが、今、改めて自分の中で、「美」という概念を考えてみたら、どのような着地点が出来上がるのだろうか。

もちろん、この年齢になり、外見の良さは尺度にはならない。なぜなら、もはや年老いて年季の入った外見になった私に、一般的には、なかなか美を感じられないことは確かなことだ。やはり、自分の手の届く範囲で、美という定義は決まっていくのだろう。では、自分が達成しうる範囲という条件で考えた時の「美」とは、一体なんだろうか。どんどん謎が深まりつつ、焦点だけは見えてくるものがある。

やはり、自由か。何でも好きな時に好きなことを実践できる人の自由というのは美しいと言える。では、多忙な中での美がないかと言われれば、なかなかそうとも限らない。働いている時の横顔。特に、職人のような眼差しで、こだわりにこだわり抜いた作品や仕事を創作している人も、美の定義に入る。こう考えてみると、やはり謎が深まり、当然、美の定義の焦点がぼやける。最終的には、個々の価値観次第だというありきたりの逃げ道に落ち着くのかもしれない。

では、たった一つの条件を、自分なりに付けてみると、一体どのようになるのだろうか。現時点では、自分の隠しても隠しきれない傷跡を背負いつつ、その傷痕が心の投影図を美しく光らせるような魅力を持ち合わせている人となる。なぜそのような条件になるのかと言えば、私の師匠の、そのまた上の師匠が、人生の表現というのは、表面ではなく、仮に青春時代が過去のものであっても、深い痕跡となっている人が美しいと断言しているからなのかもしれない。

青春時代。私は、10代後半の貴重な時間を、大学受験に捧げた。その時に出会った師匠の言葉は、どれも深くて重い。そう考えると、先程の青春の傷痕を背負って生きていくことの難しさを乗りこえられた自分に、美の定義のアウトラインに使う線は、手に入れられたのだと思うのである。

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