思考力

思考の愛好者

本日は、完全引きこもり状態。まだ、豚肉のストックが多くあるのだけれども、それを調理する気力だ湧くこともなく、宅配ピザを頼んで、カロリーの塊を腹に流し込んだ。昨晩は、風呂に入れなかったことも考えれば、いつの間にか自分が鬱モードに突入した事がわかる。いっときまでは、スケボーをけれない日は、とんでもないストレスを感じていたのだが、今ではスケボーを持ち上げる気力すらない。ひたすら時間がすぎることだけを考え、一気にムチムチし出した体をいたわりながら、鬱の波をやり過ごす以外なさそうだ。

昨日、チャットGPT4のサブスクリプションに加入し、有料版の恩恵を受けたかったのだが、まだ今の段階では、画像生成をすることはできないようで、画像生成するアプリなどにプロンプトを出したところで、肝心な画像がダウンロードできていなかったり、初期段階でのミスが多く、全く使いこなせていない状態だ。このブログ読み上げ動画であっても、やはりサムネイルには全く注力できていないので、それをなんとか改善させたいと思っていたのだが、こんな初級段階でつまずいている自分が、パッと目を引く画像を作る日は、かなり遠くなってしまいそうだ。

人生を振り返ることが多くなってきた。過去の自分の中での最盛期は、中学生頃だったのだろうか。もっと前だったのか。どの時期においても、なんかしらの心の障害があったことは事実だった。ただ、逆に考えてみると、どんなにピンチな時であったとしても、何かしらの助け舟があったことは間違いなく、人生のどん底に沈んでいたとしても、とにかく「時間」が過ぎ去ることばかりを考えていれば、その場を脱出することはできていた。だから、今日のような這いつくばって生活しなければならないような日は、時間が心を癒してくれるとばかりに、部屋に閉じこもっていた方が無難なのだ。

Twitterエックスでは、やはり鬱の波の中でもがき苦しんでいる人が多い。私は、それに同情することもあるが、私が学生時代には、そんな見ず知らずの人の叫びなどをリアルタイムで察知できる術などなかった。だから、こんなに底無しの沼に落ちているのは、自分だけなのかもしれないという恐怖は、いつでも自分の心の中にへばりついて消えることがなかった。鬱という波は、途方もないほど深く、そして孤独感を倍増させていた。そんなことを思うと、SNSを通じて、自分と同類か、もっと辛い人がいることを認知できるだけ、今の人は恵まれているのかもしれないと考えてしまう。これは、嫌味とか皮肉とかではない、私からの率直な気持ちだ。それに、今現在の私の状況が、まだまだ回復の兆しが来ると信じられるのは、他ならぬ精神疾患を抱え込んでしまった人のツイートが原動力であったりもするからだ。

今、思いっきり顔面に球を投げるぞと言われれば、それは強い恐怖を感じるし、それが本当に放り投げられたとしたら、思わず体を逃している。ただ、自分が信じられぬほどの鬱に苦しんでいたときは、そんな脅しは通用しなかっただろうし、そもそも球を投げられたとしても、目を瞑る程度の反応しかできていなかった。そもそもの話、指先を動かすことが辛く、締め縄を買いに行く気力もなく、座っていたとしても、薬の副作用で椅子にじっと座っていられないのだ。これに過食が加わって寝込んでいれば、体重3桁にも届く勢いだった。そんな変わり果てた姿で大学に行くというのは、まさに生恥を晒すような地獄であった。

今思うたびに、過去の自分が鬱になっていた頃というのは、実際のところ、多く人たちが心の底から楽しんでいる時間であり、そこで楽しめなければどこで楽しむのだと思えうほど貴重な時間だった。それを、暗い部屋の中で横たわっているだけだったのだから、いくら後悔しようとも、それを取り戻すことはできない辛さが重なってしまう。時間というのは、このような観点からすると、とても残酷である。時が経過するごとに、時間というのは鬱状態の人を助ける。しかしながら、その悲惨な状態から快復した人が振り返ると、取り返しのつかない貴重な時間そのものが荒れ果てていたことに気づく。この二面性に、大きなギャップを抱き、当事者はなんとも負に落ちない傷を背負いながら生きていくことになる。ただ、人生の中での不調というのは、誰しもが経験するものだと思うし、自分だけが立ち止まってしまったのだと叫び続けていたとしても、結局のところ、誰も振り返って自分を持ち上げてくれることはないのだ。

自分が誠意を持って進んでいたとしても、時の流れのなかで自分が理不尽なアクシデントによって立ち止まり、底無しの沼に嵌まり込んでしまうことだってある。その時に、自分は誰かを恨むべきなのだろうか。逆に、何もできない自分を恨むべきなのだろうか。最終的には、恨むべきものが時間なのであれば、どこに怒りの火種があったのかさえ分からなくなってしまう。ここまで考え始めると、どんどん哲学的な思考回路に迷い込んでしまうのだ。そこまで考えられるほどの英知はないし、そこまで考えられた自分を、小さな哲学者だと認知してあげてもいいのかもしれない。

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