思考力

再生利用して描く

リサイクルショップで、中古のサーフボードを見る。私が、サーフィンに目覚めた頃のアウトラインの板などは、もはやボロの棒のような値段で売られていて、これが、20数年前には、十数万で売られていたのかと思うと、なんてモノに金を払っていたのだろうかと寂しい思いをしてしまう。端から端まで板を見ても、やはり年代と共に、板のアウトラインが同じなのであれば、当時のサーフボードの性能は変わらないだろうし、結局のところ、ブランドのロゴに付加価値がついただけの値段でしかないのかもしれない。この考え方は、正直、大きく間違えてはいないはずだ。

まさに記録的な暖冬の今年の12月。師走だと言うのに、運転をしていれば、ジリジリと日差しが強く、とても眩しい日光が車内に入ってくる。運転席を倒して寝転がれば、気分はスッと落ち着くのは確かだし、頃合いを見てスケボーを蹴れば、うっすらと汗をかくような気温だ。来週にもなれば、強い寒波が来るという予報が出ているけれども、それに沿って自分の気持ちが急降下しないか不安ではある。そんなことを考えつつ、海を眺め、小さな波で練習している初心者のサーファーの動きを目で追いながら、自分も復帰できるかもしれないと言う自信がフッと湧いてくる。

そんなときに、自分が10代だった頃の板を持って、海の中に入れれば、気持ちも落ち着くのだろうかと感慨にふけっていた。リサイクルショップで抱き合うような姿勢でサーフボードを抱えていれば、波乗りに依存していた自分の心も騒ぐのだろう。でも、ミニマリストとして生きようと決心して空いた部屋のスペースを、サーフボードとウェットスーツ で圧迫しようとは思えないし、何よりも、海岸線を走ってスケボーを蹴ることが今の自分の支えになっているのだから、欲張るのはいけないと思う。あれもこれもと言う気持ちは、結局のところ、全てを台無しにしてしまうことだってあるのだ。

昨日到着したスケボー。これは、とんでもなく暴れん坊で、蹴り込んで切り返した身体が、地面に減り込んでしまうのではないかという動きをし、身体ごと空に吹っ飛んでしまうのではないかと思わせる局面もあった。スケボーに復帰してから、数ヶ月たち、まだ一度も転倒したことはないのだけれども、この「じゃじゃ馬」を飼い慣らすのは、結構無理がありそうだ。油断していれば、大怪我をしそうな気配さえある。でも、このようなリスキーな物を支配できるという気持ちもまた、自分の好奇心や気持ちを刺激する、とてもいいカンフル剤になるのだとも思っている。

「濡れる」という行為。サーフィンにおいては、決して避けられないことだ。それを、今、あえてやる必要があるのだろうか。そもそもそのようなことを心に抱いているのであれば、波に乗るという神聖な行為は、絶対に慎まなければならない。だけれども、少なくとも、アスファルトに波を描くことは、今の私にだってできる。それならば、かつての若き自分が描ききれなかった、波の上のラインを、コンクリートの上で再現し、超越することはできるのだと思う。だから、今は、自分を叱咤激励することなく、自分を癒すかのような気持ちを大切にするべきなおだと思っている。

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