思考力

価値のない椅子

「春眠暁を覚えず」。目が醒めたのは、14時過ぎ。何やら、寝付きが悪く、徐々に体内時計がズレていっていることは否めず、再生時間が11時間以上の「睡眠用リラックスBGM」も再生が終わっている。気づけば、今日は土曜日で、しゃぶしゃぶのサービスタイムは、平日限定だから、今日も明日も「通常料金」となる。気づけば、明日は「誕生日」。まさか、いつも通っている店で「誕生日割」などがあったとしても、「話しかけるなオーラ」を丸出しにしている私は、自分誕生の祝福日を申告する勇気はない。ただ、誕生日前日であろうと、私は気を抜かずに淡々とブログを書く。集中力α波を出す“リラックスジャズ”を流しつつ、前頭葉を活性化し、普段と変わらず、現代社会で生きる「自分の方向性」を見出していこう。

では、切り口として「19XX年3月28日」に生まれた事による、自分の人生への影響を考えてみる。この日付に関して、一番重く不利益を被ったと感じた時は、当時15歳の最悪の体罰高校生活の渦中。当時は、自分の選んだ高校と自分の生まれた日付を間違えたとしか言いようがなかった。自転車に原動機が付いた「原動機付自転車」に乗りたくてたまらないが、法律の年齢制限が「16歳以上」となっている以上、それに歯向かうわけにはいかない。体罰高校と法律に歯向かうと、重いペナルティーが課せられる。

ただ、今でも冷や汗モノだった苦い思い出があり、原付で登校していることがバレ、それほど重い罰ではないと鷹を括っていたが、なんと「停学処分」ギリギリの行為だったのだ。それにも懲りず、原付で登校し、たまたまバイクを置く位置を10メートル前へ移動させようとして、ヘルメットをしないで走らせたら、「ポリスマン」に停められてしまったのだ。頭の中がなっ白になった。免許証とともに、容赦ない質問責め。「今日は、体調が悪かったので、制服で病院へ行く途中でした」などのエクスキューズ。その警官の最後の取り調べである「タバコは!?」。当時、高校生の喫煙率は非常に高かったので、その時にタバコがポケットから出たら、高校三年の二学期まで体罰に耐え忍んだ時間が、泡となって弾き飛ぶところだった。

ポケットを全部裏返しにされ、成田空港の入国審査の如く、身体をタッチされチェックされる。硬い物がポリスマンの手に当たり、それが「生徒手帳」であることが判明して、なんとか事なきを得た。すでに、時効ということで暴露すると、スクーターのヘルメット収納スペースには、「マイルドセブン」と書かれた箱が、3つほど収納されていた。今思い出しても、冷や汗が出る。

今では、高校生の喫煙どころか、成人の喫煙率自体が一気に下がった。私が、大学一年生の時に、盲腸の手術をした時には、「ナースステーション」の前に灰皿があり、夜中、どうしてもタバコを吸いたくて眠れず、「一本だけ吸わせてくれ」と懇願し、それが許可されたような時代。そして、その許可を破り、二本吸った思い出もある。今では、病院の敷地内ではもちろんのこと、面積が一定以上の飲食店でも禁煙。パチンコ店でも同様。かつて、友人二人でパチンコで大勝ちし、居酒屋でパーっと酒を食らって、その戦友と、一服二服三服と毒ガスを吸い込み、さらに寿司屋で大盛り上がり。しかし、3日後に二人揃って「食中毒」になったというコントのような思い出もある。

これから先も、タバコに対する規制は厳しくなることは不可避であり、昨日のYouTubeで仕入れた知識によると、少量の「飲酒」ですら「害」にしかならないというデータが出たそうだ。もちろん、吸うか飲むかは本人次第。ただ、害があるかどうか、その害がどのように体に影響を与えるのかを、知識として知っておかなければならない。「マリファナ」は、オランダ・カナダ・アメリカの一部の州では「合法」であり、喫煙や飲酒に替わる「嗜好品」として愛用される時代が来る気もする。「過去」「現在」「未来」で、価値観が変化していくことは当然ということは、このブログでは嫌というほど述べてきた。だから、実は心配すべきことと、別に心配しなくても良いことの境界線も、生活している国の法律の範囲内で、自分自身の意思で決めていく必要はある。

ただ、どんなに安全性が判明し、合法化された「何か」であっても、過剰に依存することは厳禁。仮に、過度に依存した状態で、1年間の有給休暇をもらって、一年中ハッピーな生活を送ったとしたら、労働意欲すらなくなり、その先の「幸福」が見えなくなってしまう人も出てくるだろう。パチンコも飲酒も喫煙も、今は合法であるが、過度に依存すれば、それなりの病気と診断されて、それなりの治療を受けなければならないというのが現状。だから、自分の周りにいる迷惑な人は、何かに対して過剰に依存することを強いてくる人だと基準を設けておいたり、自分自身でさえも、一度冷静になって何かに対してアクションを起こす習慣を身につけておくべきだ。

今自分がしようとしていることは、一時的に話題が沸騰しているだけの出来事なのか、ドラえもんがタイムマシーンに乗って未来から見ても、確実に続く流れなのか、そして、過去の自分から見て、その「ドラえもん」は正義の味方なのか「詐欺師」なのかを判断する。誕生日が過ぎ去った回数だけ、人間は様々な経験を重ねていることは、変えられぬ真実だ。今まで、多くの失敗をし、幾度となく人生を修正して、自分を修理してきた。それでも、油断をしていれば、知らぬ間に穴が開いていて、そこから見知らぬオイルが漏れていることだってある。最新の生き方マニュアルであっても、それは、かつてのマニュアルになり、未来の世界の猫型ロボットが、今後の10年においては、あっという間に、過去の世界のブリキのおもちゃに変わっていく。これからの10年の速度は、信じられぬ格差社会を産む。私が、50代半ばに「ベーシックインカム」を受け取っているか否かは、自分の意識次第だ。

アメリカの経済成長が右肩上がりで、中国が伸びていき、インドが一気に追いつけ追い超せの時代。では、このまま日本は、衰退の一途を辿るしかないのだろうか。投資の世界では、どんなプロであっても「未来は予測できない」という。指示出し側の言いなりのように動いている奴隷が、命令に従えば従うほど、実は指示出し側の行動がバレバレで、いつの間にか、指示を出す時間も場所も内容も、果ては「個人情報」まで、奴隷側に抜き取られていて、思いもよらぬタイミングで、一瞬にして、支配していたはずの奴隷側に制圧される。そんな脅威に、一瞬で落っこちる時代がすぐそこまできているのかもしれない。

いや、もう気づいている人は、既に、そんなことをしている。昔、イジメられていた人。昔、パワハラを受けていた人。昔、ランチに誘われなかった人。「適材適所に必ず自分の居場所がある」などという道徳的な言葉が通用しなかったことを、実際に体験した人たちが、実は、これからの時代に重宝される時代がくる。別に、恨みによって、何者かが変貌するというわけではなく、時代の価値観が急変すれば、かつて虐げられていた人の立場が、一気に逆転することは、至極当然と言えよう。

最前線で、陣取り合戦をしていた人たちが血眼になって争っていた「椅子」に価値はなくなり、実は、椅子ではなくて、フカフカの芝生の上に、お尻を置いて、「椅子取りゲーム」を観戦することが美徳となるかもしれない。「密」になって陣取り合戦をしているより、のどかに観戦している方が「感染リスク」を抑えられるという事実だけは確実なのだ。

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