思考力

住処にモノを置かない

 

とりあえず、今日、新居に机とホワイトボードが運ばれて、引越し完全終了となる。車で10分程度の距離を往復し、その道のりの途中に、リサイクルショップがあるという、断捨離を決行するには、信じられない好条件が重なった。もはや、この往復は、一種の恒例となっていて、ボランティアの簡単な作業であった。確かに、リサイクルショップで売却し、50円程度しか値がつかなかった私のアイテムが、堂々と2,000円以上で店頭に並んでいるが、それ以上に、私の所有していたモノが無くなっていくのは、気持ちがいいものである。大変気持ちがいいものである。

昨日は、10年程度使用していた「机」と「本棚」を売却した。それぞれの売却価格は、400円。これは、私が実家のワンルームで生活していた時に購入した2つの物ではあったのだが、この際、手放して新しい物を新調することにした。売却査定完了を待っている間の時間に出会った机が、妙に気になり、その机の相場は10万を超える代物。ただ、何故か引出しの1つが無いという状態で、店頭に並んでいた。

もう、本棚そのものを持たない生活をしようと思っている。だから、その机には、ある程度の本を収納できる容量があり、そこに入らない書籍などは、押し入れに収納するか、BOOKOFFか、破棄の対象となる。本というのは、何やら、思い出というか、買った時のテンションが残っていて、あまり開かなかった本には未練が残るが、新居に移動する際に処分しなければ、本のための家賃を支払いつつ、私が使用するワンルームの面積を支配してしまう。

ただ、最近は、とんでもない普及率で本を保管することができるシステムがあったので、大量の本をゴッソリと処分するような大胆な行動に出られた。それは、本の「自炊」というサービスで、業者に依頼して一冊の本をPDF化して、そのデータをダウンロードするというサービスだPDF化された本は、裁断されて戻ってくることはないが、データとして残るのであれば、それで問題ない。

こう考えると、多くの優秀な人たちが、どんどんミニマリストとなっていく気持ちが分かる。物を持たなければ、それだけ1日の判断する回数が減るわけであり、1年以上寝かせて置いた物などに関しては、極論でありとは言え、その存在そのものに、もはや価値がなくなっているはず。だから、今回、本棚そのものを処分したというのは、英断であり、これからは、必要な情報は「ブックカフェ」で仕入れつつ、どうしても欲しい本は、Kindleペーパーホワイトなどで購入することとする。

では、ここで「引きこもり問題」という、現代社会が抱える大きな問題とリンクさせて考えてみよう。引きこもり当事者にとって、身の回りにある「モノ」のほとんどが、かなり長期間に渡って居座り続けた呪縛のような物であり、かりに、業者が来て、1日で所有している物を持って行ってしまったら、どんな気持ちになるのだろうか。まさに、スズメバチの巣を突いたかのような暴れ方をするのだろうと思う。かれらは、自分のテリトリーを侵害されることを、酷く恐れているはずだから。

ただ、彼ら彼女らに伝えたいことがあるとすれば、やはり大きく環境を変える為には、一度その周辺の環境を変化させ、バビロンの大富豪の教えで言えば、「より良きところへ住む」ということも、現状を打破するための、大きな起爆剤となろう。環境を変化させることで、少なくとも自分が所有していた物を処分しなければならないし、処分すれば、新しい物を買わなくなる。そうすれば、自分の生活水準というのを落として、必要最低限の支出と収入のバランスを考え、少しは、労働することに抵抗がなくなるかもしれない。これは、なかなかの盲点を突いた打開策ではなかろうか。

もちろん、それを強く否定する人も中にはいるもので、昨日は、早朝の旧居から新居への物の運搬の道中の運転中に、私の車線変更に対して文句を言ってきた者がいた。後ろからクラクションを鳴らし続け、運転席のドアを全開にしている。これから車から降りて行くぞという威嚇行為であったのだろう。私は、強烈な眠気があり、怯えることも怒り返すこともなかった。

ただ、信号が青に変わろうとするときに、後ろから罵声を浴びせられたが、運転席の窓を開けて後ろを振り返り、「そうですかぁ?」と言ったらことなきを得た。向こうの攻撃があったとしても、どうせ前に出てこないのであれば、そんなトラブルは無かったことと同じ。いちいちビクビクして、運転そのものに恐怖を感じてしまえば、さらに自分の殻に閉じこもる羽目になってしまう。そもそも、相手方が怒り狂って車から出てきたとしても、今の時代には「ドライブレコーダー」がある。証拠対証拠の時代の中、短期は損気。攻撃してきた相手が悪くなるのだから、そんな奴らは放置しておけば良い。

引きこもりに関して、デリカシーのない無責任な発言が多い。好きで引きこもっているのであったとしても、やはり、心の奥底で社会との接点を求め、苦しんでいると、私は考えている。それが単なる私の思い込みに過ぎないとしても、過去のトラウマなどで苦しみ、やがて、外出することそのものに恐怖を感じていている人たちが、果たして甘えていると考えられるはずはない。

物を処分し、目を向けた場所に何があるのかということが一目で分かる。結局のところ、今まで住んでいた場所のデッドスペースを、ギュッとまとめてしまえば、さほども面積など必要ないことが理解できた。だから、今の私から「引きこもり」で悩んでいる当事者の人にアドバイスをするとすれば、一度、「dead」になりかかっている物と距離を置き、自分の周りにある人間ではなく、「物」との付き合いを変えてみるのはどうだろうか。物は、今までの自分の生き方を否定しない。もし、それで問題が解決しないのであれば、元の「住処」に戻ればいい。別に、もとに戻ってきたとしても、「根性なし」「裏切り者」と言う「物」など無い。

自分の中に自分を閉じ込めているのは、他ならぬ自分の所有物へ怨霊に近い執着心であるのかもしれないという意識だという、一見すると変化球としか感じられない手法も、まんざら悪く無いと思う。政府は、支援金を出すことばかりに躍起になることなく、当事者の動きをサポートできるような予算と、チャンスとなる舞台を提供することにも力を入れるべきだと思うのである。

-思考力