思考力

一時的な加速の可否

日付が変わったから、今のうちに今日の記事を書き上げてしまおうと思う。そもそも、昨日は、かなり躁転気味で、3時間程度の睡眠時間しかなかったというのに、バリバリと行動力が出てきてしまい、それでいて、もう深夜だというのに、まだブログを書く余力が残っている。やはり、自分は夜型の人間だったのだろうか。夜に仕上げるブログであっても、それはそれで良くかけているとも思えるし、朝にはない暗さが出ているというよりも、朝だからこそ光で見えなくなってしまっているものが、夜には見えてきたりしている。

この記事をYouTubeにアップロードする頃には、自分の気持ちが萎えてしまって、再び鬱の泥沼にハマってしまうかもしれないけれども、今のうちにやれることだけはやってしまおう。芸術家が、躁状態の時を利用して、数々の名作を創り出してきたのだから、とりあえずその端くれであると思い込んで仕舞えば、こんな夜のブログにだって、なんらかの価値が出てくるのかもしれない。とはいえ、YouTubeの登録者数も頭打ちで終わってしまっているし、私の記事や動画などは、全く世間様に見られることもなく、まして存在すらも認知されていないのだから、こんなところでハッタリをかましていたところで、あまり意味はないのかもしれない。

ドライブに行くときには、必ず海岸線を走る。少し、山の方角へ車を走らせてみることもあるのだが、なぜか君の悪い感じばかりが先行してしまうこともあり、もはや習慣のように走りなれた道をカーブしながら、数カ所のサーフポイントの駐車場に車を停めて海を眺めている。ただ、腰の骨が折れてからというもの、もはや自分は海を眺めるだけとなってしまったのだが、思い切ってスケボーを買い、それに乗り込んでみると、なかなか自分の中のポテンシャルが消えていないことにも気づき、やはり海の中へ入りたいという渇望のような気持ちが芽生えていることも確かだ。だから、今日は家へ着くなり、ずっとサーフィンの動画やサーフショップのホームページを閲覧していた。だから、こんな時間になってしまったということもある。

承認欲求というのは、なかなかキリがないようで、今の愛車には本当に申し訳ないことをしていて、車のエンジンをかけながら、もし次の車を買えるのであればというシミュレーションばかりをしていたりして、もはや恋人の前で次の彼女の候補や好みのタイプを相談しているような状態だった。ただ、もし波乗りを再開して、今の相棒を乗りこなし続けられれば、もはや車というのは移動手段であるばかりではなく、大きな荷物を運びながら海まで送り届けてくれる大切なツールとなる。だから、SNSの承認欲求を丸出しにするようなことなどせず、今の車でどれだけ新しいことや、かつてできていて、今も希望を持てるかもしれないということに挑戦できるかもしれないという前向きな心構えを持てるということは、とても素晴らしいことではないだろうか。

古本屋で本を買ったのだが、なかなか読む気になれていない。確かに店頭で慎重に吟味しながら買ったのだけれども、いざ我が家へ持ち帰ると、机の上に横たわっているだけとなってしまう。Twitterで自分の本の購入のツイートを見てみると、もはや2ヶ月以上前に買ったような本の画像があった。そのような本にもう一度向き合うということはできるのであろうか。今の自分には少しハードルが高いような気がしている。YouTubeで得られる情報というのは、とにかく最新の情報であり、特に投資の情報などは鮮度が重要になってくるわけだから、書物に印字された文字というのは、時間の経過とともに、輝きを失ってしまうことにもなってしまう。

ただ、読書をするということそのものを否定しているわけではない。活字を読むことは、自分が字面だけを負って内容が理解できなかった時に、再び文脈を追うという脳味噌の使い方をするわけだから、そのような情報の取り入れ方も、とても大切だ。そして、鮮度が落ちた情報とはいえ、当時の盛り上がりが今となってはどのような影響を及ぼしているのかということを知るのも、とても良い勉強にもなる。しかしながら、やはり今の自分が椅子に座りながら、目で活字を追って内容を理解するというのは、大変な労力がいるということは間違い無いのだ。

このまま薬を飲んで横になれば夢の世界へ誘われるのだろうか。それとも、なかなか寝付けないで、ただただ焦りながら眠気を待ち焦がれるのだろうか。薬を飲む前なのだから、車の鍵を持って、そのまま24時間営業の薬局の安売りのお菓子でも買って、ムシャムシャと食べてしまいたい。そうやって眠気を引き起こして眠れれば、たとえ睡眠の質が悪かろうと、気持ちよく眠れるような気がする。これを肯定するのであれば、もはや自宅ではストレス性過食やら、不眠症の治療はできないということにもなってしまう。もうすぐ、深夜の一時を回る。自分の行動に責任を持つというということは、やはり骨の折れる行動である。

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