思考力

膝に抜ける潮風

自分に対しても、誰かに対しても、まさに「すったもんだ」を繰り返し続けていた千葉での生活。今、振り返ると、本当に沢山のイザコザがあった。割合にしたら、圧倒的に「負」の側面の方が強いけれど、多少は「光」の側面だってあるわけで、自分は完全に暗闇に閉ざされていたわけではないということが分かる。先日、Twitterにリンクを貼っている、私の”note”を読んでくださった方から、お褒めの言葉を頂戴した。そして、私は作品の中でも書いているのだが、「振り向くと影がある」という表現を遣い、それは光のある方向へ進んでいる証だという描写をした。

この『海と山の境目』という作品は、誰かに魅せるための作品ではなく、抽象的で掴み所のない感覚を、できる限り文字に載せて書いた短編小説だ。だから、誰かが、この作品を読んで、1行でも自分の心のどこかと共鳴する接点のような箇所があれば、そこに私の役割が果たせたということになる。書いているうちに、物語としての「ストーリー」がなくなってしまったというのは事実だけれども、表現している対象は、確実に自分の中に投影されている事象にある。

一泊して、東京の病院へ受診をする。この時は、必ず前の日か後に、重要な予定を噛ませている場合がほとんどで、実際、今回の一泊のスケジュールは、ギュウギュウ詰めで、それを完遂できた今、私は非常に満足している。そして、帰宅してから、このブログ作成を忘れていることに気づいて、今、Macのキーボードを叩いているのだ。

オンライン面接を通過した英語専科の塾の2次面接へ向かう。高田馬場の駅は、とても懐かしい。憧れが憧れのまま風化してしまった大学に、当時の私が願いを込めていた時の頃を思い出す。電車を乗り継いで下車した駅を間違えていて、そのまま徒歩で目的地の教室へ向かった。もはや、最近の靴下の汚れを拡げてくれている「靴擦れ」が、さらに出血し、うまく歩けない。やっと、到着したかと思えば、教室の目前で雨が降り出す始末。厄落としも必要だという前向きな気持ちで、教室の門を叩いた。

代表取締役社長の方は、女性だった。もちろん、男女に分け隔てなどないのだが、とても凛として、ハキハキと物事を口にし、シッカリと自分の考えを伝えられる方だった。正直、ここまで本格的な英語専科塾に、私など採用されるのだろうかと不安にもなったくらいだ。ただ、その代表の考え方は、私の「思考力養成予備校」の考え方と、全くのパラレル関係にあった。ここまで自分の考え方と、話し手の考え方が一致することは、もしかしたら、今までの教育の語り合いの中では、初めての経験であったかもしれない。「受験という枠に囚われない学習」。私なりに、常に考えていたことを、まるで代弁してくれたようであった。

そして、私は、毎日、このようにブログを書き綴っている。だから、この英語専科の代表のような気品の高い方との話し合いというのは、下書きや原稿などの前段階の「仕込み」は、不要だった。こうやって綴っている文章の中のどこかの線を引っ張り出せば、必ず自分の考えというのが、数珠つなぎでまとまってくるのだから。私は私なりの「思考力養成予備校」代表として、誇りを持って、自分の考えを伝えられたと満足できた。途中、母を亡くしたことを話しかけた時に、思わず目頭が熱くなってしまったが、自分の健闘を母は必ず天から見守ってくれているのだ。

私の外房生活は、そろそろ終わりになる。多少、おこがましいとは言え、とうとう自分の考えと一致する方のもとで、英語の指導を再開することができるのだ。東京の都心にある教室に、片道2時間半かけて通うのは、さすがに無理がある。今、その付近での物件を探している。今も、その帰りだ。少し気になることは、古傷の膝の調子が悪くなり、ほとんど曲がらない状態で、階段の昇降も危ういところだ。来週は、大学病院で精密検査をし、長年、私を苦しめている膝の怨霊退散としようではないか。

やはり、今の私は、好調だ。好「潮」。あとは、潮の流れる方向へ進んでいけばいい。「流れる方向に自然がある」のだと思えばそれでいいのだと思えるようになった。

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