思考力

臆病なカラダと宝の地図

 

横乗り系のスポーツでの転倒は、非常に危険であり、激痛を伴う。超有名shaperのハンドメイドのシェイプのサーフボードであれ、優雅にステップするロングスケートボードであれ、やったことはないけれど、雪山を高速で滑り降りるスノーボードだって、思いっきり転べば痛いはずだ。昨日は、愛用のスケボーで、久しぶりに派手に転んでしまい、左掌に広く擦り傷を負ってしまった。不幸にも人差し指に深い傷ができてしまっているので、こうやってタイピングをする時も、鋭い痛みが走る。今は、人差し指を使わずにタイピングしているので、「スケボー」と打ち込んだのに、「スケべー」となってしまっている状態。まぁ、不幸中の幸いとして、利き腕の右手でなくて良かった。

さすがに痛みが強いので、今、絆創膏を貼ったのだが、このブログを書き終えたら、凝りもせずに真っ先にスケボーに乗って滑走する。頑固でウザったいと思われることの多い私は、今、一人で行動する喜びを手に入れており、誰かと予定を合わせて、コロナがどこに潜んでいるのかもわからぬ人混みの中に、わざわざ突っ込もうとは思わない。先週の土曜と比較すると新規感染者数が減少したという表現をするマスコミの報道。不安を煽り立て続けていたのに、今では安心感を与えようと必死になっているのだろうか。揺さぶり報道にも飽き飽きだ。もはや、世間は、コロナ報道よりも、次の「臨時国会」に意識が向いているように、YouTubeのオススメトップニュースが明示している。

自民党総裁の椅子が、どれほど硬いのかは知らないらないが、コンクリートの硬さは、身をもって知っている。世間の意識の早さがどれほどの強さと影響力をもっているのかも知らぬが、台風の時の波の強さは、サーフィンをしていれば分かる。では、何度も骨折し、何度か離岸流に流されて死にかけた自分が、懲りずにサーフィンやスケボーをし、この年齢でもリスキーなことに挑戦しているのか。目立ちたがり屋ということを差っ引けば、やはり、「無」の状態を欲しているからだと思う。

どんな人であれ、生きていれば、様々な感情の渦に心が支配され、まさに自分でも抑えられないほどの勢いで、心情が暴れだすこともある。例えば、強い憎しみを抱いているニンゲンと、全く同じ名前の人がいれば、過去のトラウマが蘇ったり、過去のツライ経験と同じような環境や状態に陥れば、その時の記憶が、鮮明に蘇ったりすることもある。これが、あまりにも酷い状態まで行けば、”PTSD”となる。重症の場合は、迷うことなく病院へ行くべきだが、そのような過酷な状態になることを避ける「予防線」を張っておくことも、とても重要である。

まさに、昨日の状態は、スケボーで滑走している「無」の状態から、不意に道路にある窪みにスケボーの車輪がハマり、大きく転倒して怪我をしたわけだが、やはり、自分の心が欲している「無」の状態が、少しでも気を抜けば、強い痛みを伴うスケボーから得られる「無」なのであるから、当然のように今日も板を足の下に敷いて、コンクリートの地面を蹴るのである。こうやって、秋のジャズを聴きながら文章を組み立てつつ、すでにスケボーに向かって、心が躍り始めている。やはり、私の精神年齢は、とても低いようだ。私は、それを誇りに思っている。

負の感情が溢れて、止まることがなくなってしまうのであれば、一度完全にリセットすること。そして、そんなマイナスベクトルを正反対の方向へ「移籍」させることに努めるべきだ。もちろん、それが容易にできるのであれば、誰だって苦労はしない。ただ、具体的な方法として、「鬱になったら筋トレ」というほど、筋トレや運動の効能の高さが世間で知れ渡るようになってきている。自分の体力のマックス付近までカラダを追い込めば、脳味噌は、自分のカラダを守ること以外考えられなくなるのだろう。それならば、自分の生きる意味などは、複雑なことではなくなる。なぜ生きなければいけないのか。それは、身体が怖がっているから。この記事を書きながら、あっさりと答えが出てしまった。

限りなく「無」の空間。ミニマリストが、「ワンインツーアウト」で、シンプルに断捨離をするような、あっさりとした考え方。思考が行動を決定し、行動が自己を形成する。そう考えれば、思考は目的を現実化するのだ。何かしらの夢を叶える方法があるのであれば、何も無い状態であっても、生きる上で不可欠な宝物を見つけだすことである。そして、そのようなかけがえのない宝物を見つけられたのであれば、それを利用して「無」という状態を得られるための、自分にしか持てない「思考回路」を再度考えることが大切だと私は考える。

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